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幸せはどこにあるのか – 日米比較とある仮説

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先日「スライスパン以来のすごいこと」という英語の表現について調べていたところ、セス・ゴーディンのTED公演を見つけた。記憶に頼っているので間違いもあるかもしれないが、テーマはアイディアを広めるということで、次のような内容だった。

情報が蔓延した現在、みんなが買うようなありふれたものは誰も口コミに乗せてくれない。口コミに乗るのはとても珍しい「紫の牛」だけだ。紫の牛はとても目立つが、普通の人は「なんだこれは」というだけかもしれない。しかし、それを熱心に支持する「オタク(日本語で使われている)」がそれを熱心に語るだろう。

確かにこれは当たっているように思える。たとえばアパレルではマーケティングを元に売れ筋ばかりを作ろうとする。いまや売れ筋の定番商品が溢れており、それがメールマガジンやファッション雑誌という形で押し寄せてくる。だが、どれも似たりよったりの内容なので注目に値しない。そこで製造物の半分は廃棄されるか中古市場に流れているのである。
多分アパレルがやるべきなのはあるコミュニティを見つけて、そこに特化した商品を作ることなのだ。そこで盛り上がれば、口コミに乗り流行するかもしれない。ゴーディンのプレゼンテーションにはアパレルの二極化に関する言及がある。
しかし、と考えた。アメリカでこうした紫の牛が成立するのはなぜだろうか。それは「選択というものが人格を決める」という暗黙の了解があるからだ。
たとえばアメリカ人は政治についての意見を持っているべきだと考えられている。「意見がない」とか「分からない」というのは、自分の意見がないということを意味しており軽蔑の対象になる。同じことはスタバでも起こりえる。
当然、自分の選択を正当化する必要が出てくるので、熱心な人は自分が選択したものの「アンバサダー」になる。アメリカ人は説明したがる人たちなのだ。
ところが日本人はそうではない。どちらかといえば「他人から支持されている」からという理由で意思決定をしている。典型的なのがピコ太郎やPokemon GOだった。「みんながやっている」とか「ジャスティン・ビーバーが支持した」というお墨付きが重要で、それがあっという間に広がる。ピコ太郎の衣装が渋谷を席巻するまでに一ヶ月かからなかった。
その代わりに「自分の選択」ということにはあまり自信がない。場合によっては「何でそれが支持されているか」を説明できなかったりする。PPAPの場合には「なぜあれが面白いのか」という理由付けの仮説がいくつも提示されたが、誰も本当のところは分からなかった。だが、理由は簡単で、「みんながやっているからやらざるを得ない」のであり、実は支持する理由はないのだ。
ゴーディンのプレゼンテーションを聞くと、イノベーションを起こす上で重要なのは実はリーダーシップなのだということがわかる。日本ではフォロワーになりたい人が多く、イノベーションが起こりにくいのだと仮説することができるだろう。
こうした違いはブログを書いていても感じる。アメリカ人的なメンタリティを持っている人が多ければ「賛同する」という体で自分の主張を展開する人が出てくるはずだ。しかし、そうした人はおらず、したがって応援や非難ということが起こりにくい。支援してくれる人はいるようだが、自分の意見は決して乗せない。自分の意見を形にするという訓練を受けていないのだろう。ということで、誰も影響を受けない。
そこで統計を見てみんなが読みたがる記事を調べることになるのだが、これはほかの人が書いている記事に似てくるということを意味し、実は逆効果なのかもしれない。
さて、先日「幸せ」について考えた。アメリカやヨーロッパで幸せについて根本的な疑念が生じないのは、幸せが個人の意思決定の総和であるというおおよその了解があるからだ。つまり、幸せの元は個人の中にあり、それが承認されるかどうかということは、あまり重要ではないということになる。
それに比べると日本人の幸せは比較と他人の承認の中に存在する。それが自己決定の結果であっても、他人が承認しなければ幸せということにならない。そこで比較と承認合戦が行われることになる。比較と承認が個人の主観によって形作られており、時代によって変化が激しいので、それは永遠の承認合戦になりがちである。とはいえ、内省してみろといっても無駄なのかもしれない。自分が求めている幸せの基準は外にあるかもしれないし、自分の中にあったとしても説明ができないからだ。
こうした幸せに関する疑念は高まっている。だが、それでも内省する能力がないので「個人がわがままだからこうなった」とか「それは国が管理すべきだ」などと本気で考える人すら出てきた。
アメリカでは、日本の憲法第十三条にあたる権利に関して国が介入すべきだなどという議論は決してしないだろう。イデオロギーの問題というより、個人の選択の自由に集団である国が関与しようなどという議論は決して論理的に起こりようがない。個人と集団の利益(正確には集団を支配する人の個人的利益だが)はコンフリクトする可能性が高いからだ。
さて、TEDの議論でもうひとつ面白いなと思ったのは、オタクという言葉が日本語のまま使われていたことだ。オタクは「何かに熱心になっている」人々で、アーリーアダプター層やイノベータ層の言い換えである。マスタードには興味ないが辛口ソースのオタクは多いというように、視野の狭さもオタクの特徴である。
面白いのはアメリカ人がわざわざ日本人に言及しているところだ。アメリカ人は誰もが説明したがるわけで、オタクのような存在が出てこないのかもしれない。一方、日本人はマジョリティになりたがる人がとても多く、アーリーアダプターが紫の牛状態になっているのかもしれない。