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サザエさんと憲法

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日本会議がサザエさんを理想の家族だと持ち上げたことで、ネットでは批判が噴出した。そこで、もともと母系の家族を父系派の日本会議が押すのはおかしいという話を書いたのだが、世間のリアクションは「世田谷の一軒屋」は勝ち組だというものだった。中流階級の没落を感じさせる話だ。
そこで考えたのはサブちゃんをめぐる話だ。

サブちゃんを殺したのは誰か

サザエさんの中にはいろいろと説明が難しいものがでてくる。御用聞きはその最たるものだろう。磯野家では三河屋さんにお酒を持ってこさせている。三河屋は割引でビールを売っておらず、そもそも安い第三のビールも扱っていないようだ。
そもそも御用聞きが成立したのはなぜなのだろうか。それはサブちゃん(ちなみに10代なのだそうだ)を安いお金で雇う代わりに、ご飯を食べさせたり、家に住まわせたりしているのだろう。サブちゃんも自分のペースで(時々サボりながら)仕事ができているようだ。
サブちゃんは店を継げないかもしれないが、新しい店をだすことができるだろう。地域でのれんわけしてもらいお客さんを分けてもらえたかもしれない。酒屋に必要なスキルくらいは身につけることができただろうし、地方に帰ってお嫁さんをもらって新しい酒屋を作ることもできるかもしれない。
これがすべてできなくなったのはコンビニが生まれたからだ。サブちゃんは時給で使われ、マニュアルですべてが規定された「非正規労働力」になり、将来の独立もかなわなくなった。自分で稼ぐ手段がもてないので、将来の保障が得られない。かといってコンビニもいつまでも雇ってはくれない。
しかし、問題はこれだけではない。サザエさんとフネさんが家にいるので、サブちゃんは自分のペースで家を回ることができた。現在の佐川急便はそういうわけには行かない。届け先が在宅かは分からないし、人によってタイムスケジュールが違っているので、常に街にはりついておかねばならない。だから現代のサブちゃんたちは24時間対応を迫られる。現在のサブちゃんには将来もなければ、余暇もない。サブちゃんは日本のサービス産業がおかれた「ブラックさ」の象徴になってしまうのだ。

波平の父母問題

波平の介護という点も問題になったようだ。現在のスタンダードでは高齢者のように考えられている波平だが実際には定年前なので60歳前だと考えられる。今の常識でいうと、地元に高齢の父親と母親を抱えているような世代である。波平は福岡出身で、海平という双子の兄弟がいる。しかし、父母はストーリーに登場しない。漫画だからだろう。
同じことはフネにも言える。フネの実家は静岡でみかん農家を営んでいる。フネは女学校を出ているので、家はそこそこ裕福だったはずだ。みかん農家はそれなりにうまく行っているようだ。
マスオの母親は存命で大阪で暮らしているが、マスオには兄がおり、兄が面倒を見ていることになっている。もっともマスオはまだ20代なので母親の老後を心配する必要はないかもしれない。父親はマスオが小さいときに亡くなっているそうだ。
このように磯野家、が東京で幸せに暮らせるのは、実は地方の経済が磐石だからなのだ。

タラちゃんの教育問題

タラちゃんはぐうたらな叔父であるカツオを見て育っている。カツオがぐうたらしていられるのは公立小学校でそこそこ勉強しても大学くらいには行くことができ、会社には入れば正社員になれたからである。ところが現在では、カツオのような子供は正社員にはなれないかもしれない。
それを危惧したマスオは、タラちゃんを塾に入れたいと考えるはずである。マスオは早稲田大学を出ている。公的教育だけでは足りず、余計な出費が生まれるはずだ。当然、サザエはパートに出る必要が出てくるのではないかと考えられる。

サザエの自己実現

だが、サザエさんが働きに出る理由はそれだけではないだろう。サザエさんはフネさんと一緒に家でのほほんと過ごしており、たまの日曜日に都心のデパートに出かけてゆく。それはサザエさん一家が、消費や職業生活を通じて「私らしさ」を追及すべきだという考えを持っていないからだと考えられる。
もしサザエさんが消費生活を通じて「私らしさ」を追及したいと考えれば、サザエさんは一家でデパートにはでかけて行かないだろう。同じようにワカメもそろそろ家族での行動を嫌がるはずだ。サザエの時代とワカメの時代では消費動向が異なっており、姉妹といえども共通の基盤を持たないからだ。当然、フネとは話が通じるはずもない。
仮にサザエが男女機会均等法時代の女性だったとすれば、職業を通じて私らしさというものを追及したがったはずである。単なるお茶汲みでは自己実現できないので、職業婦人を志向していたかもしれない。当然、家で家事などもせずに、タラちゃんは保育園に預けていたはずだ。もしくは学歴があれば「私らしく」生きられたかも知れないと考えて、ワカメをけしかけていた可能性もある。
そもそも「個人が幸福を追求すべきだ」という考え方はどこから生まれたのだろうか。それは憲法第十三条に書いてある幸福追求権だろう。条文を挙げる。

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

憲法条文には「国は国民を尊重すべき」とは書いてあるが「国民は幸せにならないと負けである」とは書いていない。戦後すぐの日本人は素直にこの条文を喜んでいたが、高度経済成長が終わることに「幸せってなんだっけ」という疑問を抱くようになる。
日本人は基本的に「個人が幸福を追求する」という考え方を持たなかったのではなかったのではないだろうか。そこでそれを「経済的な豊かさ」に置き換えて理解した。それでも幸福というものがよく分からずに、他人との比較が出てきた。そこから生まれたのが「脱落」とか「自己責任」である。
話がややこしくなっているのは、もともとなかった権利が生まれてしまったせいで、それを追求できないと負けだとか、逆にそれを抑制するべきだという話が出てきたところだ。それが「公益」とか「家」などの集団規定だ。
故に問題があるとしたら、それは「幸福が何なのか考えてこなかった」ことであり、憲法の問題ではないのだ。それが日本人を苦しめているのだろう。
日本会議がサザエさんを理想の家族だと考えるのはなぜなのだろう。それはテレビアニメ版のサザエさんに社会問題が出てこないからだろう。地方経済はうまく行っており、親は兄弟が面倒を見ている。仕事にもそこそこ余裕があり、終身雇用制度が充実している。カツオには将来の不安もなく、家族間で価値観や情報の相違もない。さらに誰も年を取らず、自己実現などという面倒なことを考える登場人物もいない。
これを「リアルだ」と考える人がいるとすれば、その人は家庭というものにさほど関心を払っていないのだろう。家族は政治の基本だと考えると、その人たちが考える政治というものもずいぶん空疎なものなのではないかと推論することができる。
 

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