なんだかよくわからないうちに石破内閣のもとで衆議院が解散された。党首どうしが正々堂々と政策議論を戦わせるという名目で党首討論が行われたが「内輪のプロレス感」だけが際立つ痛々しいイベントになった。
中には石破氏が得意とする分野の議題を田村共産党委員長がたまたま掘ってしまうという場面もあった。だがモデレータがいないためにこれが深堀りされることはなかった。仮に第三者が介入するテレビ討論であれば国民はもう少し深みのある情報を得ることができていたはずだ。もったいない限りだと感じた。
国民は単に判断材料がほしいだけで「誰かを貶めるショーが見たい」と思っているわけではないのである。
党首討論が行われ自民・立憲民主・維新・共産・国民民主の代表が議論を行った。内容を日経新聞がまとめている。あまり政治に詳しくない人は「なんとなくきちんとまとまっているのでは?」と思うかも知れない。
だが重要な論点が抜け落ちている。
まず、財源議論がない。立憲民主党に顕著だが各党ともあまり財源には触れたくないのだろう。立憲民主党はインフレ率0%(これは成長を0%と言っているのと同じことだ)に消費税の還元(消費税は事業者が納めるために原理的に消費者に還元できない)というツッコミどころが多い政策を掲げている。「どうせ政権政党にはならない」という気楽さが感じられる。
次になぜ日本経済が低成長(いわゆるデフレ)に陥っているのかに関する議論がない。経済を成長させるためには国民が「経済成長が必要だ」と考えたうえで実際に努力する必要がある。だが、与野党ともにその働きかけができていない。なぜ国民に響かないのかを聞く人はだれもいない。
こうした本質的な議論を避けつつ選挙に有利な材料だけを引き出そうとするのが党首討論の本質だ。つまり、その中身は所詮プロレスでしかない。
アメリカの大統領候補のディベートはこうならない。
テレビ局側が国民代表として介在するからである。テレビ局は事前に質問内容を知らせず、ディベートのルールだけを合意したうえで、それぞれのテーマについて1時間30分ほど候補者に質問をぶつけてゆく。候補者は資料を持ち込むことはできないため主要論題について暗記しなければならない。こうして徹底的に候補者の資質があぶりだされる。
もちろん、これが主催者側の狙い通りにゆく保証はない。リベラル系のメディアはトランプ氏の台頭を恐れバイデン大統領に有利な形で討論を進めようとした。CNNが観客を入れなかったのはそのためだ。
ABCもCNNディベートの前にインタビューを行いできるだけバイデン大統領が有利になるような質問をしていた。
ところがCNNの討論会はバイデン大統領にとって大惨事となった。受け答えに精彩を欠き結果的にバイデンおろしが始まってしまった。
リベラル系メディアにとっても「負けられない戦い」となったハリス・トランプのディベートでABCは徹底的なファクトチェックを行いハリス氏を「嘘の波状攻撃」から援護していた。事前に徹底的にトランプ氏が流布しそうな嘘(例えばハイチ系移民がペットを食っているなど)を調べ上げ反論材料を準備していた。
虚実入り交じった情報を飽和的に流し相手を疲れさせるギッシュ・ギャロップを封じられたトランプ氏は討論を拒否。CNNが主催する次の討論には応じないものと見られており「FEMAは災害予算を移民に盗まれている」とか「移民はアメリカの血を穢す」などの流言を一方的に拡散させ続けている。
テレビが介在する討論会には別のメリットもある。候補者たちはどうしてもテレビに向かって説得する形になるため「内輪でなにか言い合っている」という印象が薄れるのだ。
候補者たちが訴えるべきは有権者だ。
日本の討論会にはこうした第三者目線が入らない。だから各野党の代表は「総理大臣から言質を取ろう」と躍起になる。国民はこの不毛で自分たちには関係がないやり取りを第三者的にシラけた目で見ながら「どうせ自分たちは蚊帳の外だよな」と感じてしまうのである。
第三者が介入しないことで「非常にもったいないなあ」と感じた点もある。
田村委員長が労働時間規制について総理大臣に迫っていた。庶民生活に関心がなさそうな麻生太郎氏や岸田文雄氏であればなんとなく有耶無耶に答弁して終わりになっていただろうがこの問題は石破総理のライフワークだったようだ。かなり明確な答弁をして田村氏が押される場面があった。
アメリカのテレビ局が「事前通告なし・資料持ち込みなし」にしている理由の1つがここにある。普段から関心がある分野がよく分かるのだ。
田村氏には明らかに「大企業優遇の自民党が中小企業について関心を向けるはずがない。問題を知っているのは自分たちだ」という決めつけとおごりがあったのだろう。表情が一変していた。
こういう場面でモデレータが介在し深堀りすれば石破総理の得意分野が良くわかかり国民の理解が偉られたかも知れない。
その意味では各代表がテレビ討論に応じない理由はないものと考えられる。むしろ国民に自分たち個人の得意分野を知ってもらう機会を逃していると考えたほうが良さそうだ。単に誰かを貶めるために討論が望まれているわけではない。国民はとにかく何らかの情報を知りたがっているだけなのである。
今の党首討論は「間違い探しゲーム」に陥っているが、それは討論の本来の形ではない。