パラリンピックのサイボーグ化

Twitterでパラリンピックはアンドロイドの大会になるだろうと言っている人がいた。なんとなく見過ごしてしまえばいいのだが、元SFファンとしては素通りできなかった。アンドロイドは人間もどきという意味がある。つまり人間型のロボットをアンドロイドという。鉄腕アトムはアンドロイドで、ドラえもんは猫型ロボットなのでアンドロイドではない。人間をベースに機械をつけるとサイボーグになる。だから、パラリンピックのサイボーグ化が正しい表現だ。
多分、ツイートの裏には装具をつけて「健常者以上に能力を発揮することに対する戸惑」があると思うのだが、なかなか面白い問題を含んでいる。それはオリンピックに対して人々が作っている微妙な線だ。
人がサイボーグとみなされるためには、装具に自律性がなければならない。単なるメガネ、義足、松葉杖をつけた人はサイボーグ化とはみなされない。パラリンピックを一覧する限り、義足にセンサーやモーターはついていないので、装具をつけているだけでサイボーグになったとは言えない。逆に視界を遮る装具をつける競技さえある。
車椅子陸上はほとんど競輪のような迫力だが、車椅子にモーターをつけてはいけない。だが、これはパラリンピックの縛りというよりは、オリンピックの縛りだろう。オリンピックにもモータースポーツはないし、ヨットやカヌーはあるが、モーターボートレースはない。
と、同時にオリンピックにも装具が必要な競技が多数ある野球のボールを手で打つことはできない。手が痛いし骨も折れてしまうかもしれない。オリンピックの装具はカスタマイズができないが、パラリンピックの装具はある程度のカスタマイズが許される。だが、装具を使うことには違いがない。
オリンピックには「肉体を使ってできるところまでやる」という線があるのだろう。
一方で、道具を自律化することは倫理的に許されないということもない。F1がスポーツとして認知されるのは、車の技術力だけではレースに勝てないことをみんなが知っているからだろう。ダカールラリーのように耐久性のデモンストレーションになっている競技もある。自律性(センサーと駆動装置)を備えた義足でジャンプする競技はモータースポーツのようなもので、各社の技術革新に寄与することになり、社会的に意義があるだろう。
また、目が見えない人に音センサーをつけることも、現在のパラリンピックでは許可されていない。音センサーをつければ壁を感知したり、コースを逸脱するようなことは減るかもしれない。こうしたインターフェイスの開発はホームから人が転落するのを防ぐような技術に応用できるだろう。音ではなく電気刺激だったり、視神経に直接つなぐという技術もあり得る。
オリンピック、パラリンピックは人間が持っている肉体をどれだけ有効に使うかという競争なので、パラリンピックをサイボーグ化するべきだという主張をするつもりはない。だが、障害者スポーツをリハビリで健常者に近づくための機会だとしてしまうと、せっかくのイノベーションの機会が削られるかもしれない。結局のところ、人は頭脳を使って肉体を拡張する能力を持った生き物なので、その能力を活かさない手はないと思えるのである。

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