東スポが「やす子マラソン 淡々と続く周回映像にSNSザワつく「日テレやばすぎ」」という記事を出している。安全に配慮して日産スタジアムの中をぐるぐると走り回りまわるそうだが「まるで罰ゲームだという声が上がっている」そうだ。
なぜこんな事になったのか。24時間テレビの歴史を見ると「偶発的な出来事」の積み重ねが伝統と錯誤されやめられなってゆく様子がうかがえる。しかし一度できた伝統を利権として利用する人は多い。そしてそれをやめるためには「御聖断」が必要になる。
「御聖断」があるまでやす子は競技場をぐるぐる走り回るのだが、もはや誰もそこに意味を見出させなくなっている。
日本の障害者福祉には「障害者を社会から隔離する」という基本的な理念がある。これは社会制度というより我々の社会が持っている差別意識に根ざしている。
なおこれに対するカウンターとして障害者を社会に戻す包摂型の障害者福祉の考え方がある。それがパラリンピックだ。
障害者を社会に戻す一環としてのスポーツ大会に感銘を受けた日本人がオリンピックのあとに同等の大会を行おうとしたのがパラリンピックの始まりで東京大会はその実質的な初回になっている。
実はパラリンピックに尽力したのは中村裕博士という日本人だった。旅費を捻出するために車を売ってイギリスのストーク・マンデビル大会に参加した。そしてストーク・マンデビル大会を第一回のパラリンピックと位置づけている。
なぜ中村博士はパラリンピックに傾倒したのか。それは日本社会に「障害者隔離こそが福祉である」という根強い偏見が蔓延していたからである。障害のような弱さは家や個人の恥であり世間にさらさないことが幸せなのだと言う通念が当時の日本には強かった。
もちろん、24時間テレビは最初から差別意識に根ざした番組だったわけではない。
最初の24時間テレビは11PMというお色気番組のスタッフが立ち上げた特番だったそうだ。雑誌の「日本版プレイボーイ」などにも言えることだが、11PMは「傍流であるが故に社会問題への関心が高かった」という。ところがこの番組がどういうわけか人々の琴線に触れてしまう。その場の空気に飲まれた社長が継続を約束したことでレギュラー化が決まったという経緯があるそうだ。
SDGsへの理解が深まるなか「24時間テレビはなんかおかしいよね」と感じる人は増えていった。だがそもそも生まれたときから24時間テレビあるという人も多く障害者福祉はどうあるべきかと言う議論は進まない。すでに「箱」があるのだからその「箱を」埋めることでスポンサーと寄付金が集まると言う状態が続いていた。そして、日本人の基本的な意識である「かわいそうな障害者への施し」という意識もさほど変わらなかった。
東洋経済でネット評論家と言う肩書の人が次のような記事を書いている。なるほど最近では「感動ポルノ」という言葉があるのかと感心させられる。
- 長年24時間テレビに対するモヤモヤがあった
- 健常者を感動させるために障害者を利用する感情ポルノと言う批判もある
東洋経済の記事が指摘するようにここで大きな事件が起こる。それが日本海テレビの10年に渡る着服事件だ。眼の前に多額のお金が流れてゆくが誰も総額を管理していない。幹部はギャンブルや飲み食いに着服した金を使ったと見られている。
ここで「包摂は金にならないがチャリティーは中抜きができる」ということが誰の目にも明らかになった。傍流が着想したチャリティ番組はいつの間にか本流となりその過程で「善意を利用したビジネス」に変質していったわけである。
実はマラソンも同じような始まり方をしている。たまたまマラソンが得意なお笑いタレントが企画のきっかけになっている。それが間寛平である。
最初のマラソンランナー間寛平が走ったのは1992年の第15回大会だ。間寛平はマラソンに取り組んでいるお笑いタレントだったので、意味のあるキャスティングだった。1994年はダチョウ倶楽部が走っているがやはり間寛平でなければダメだということになり、1995年まで3回走っている。
普通のマラソンより長い100キロ超を走り「これはすごい」と思わせる内容だった。だがあまりにも感動的だったため企画の継続が図られ徐々に100キロが「相場」として定着してゆく。
そもそもなぜ日本人はマラソンが好きなのか。
実は日本人は皆を感動させるために自分を捨てる人を見るのが大好きだ。オリンピックや甲子園などのスポーツ大会では「人生のすべてを捧げる」人たちがもてはやされる。スポーツ選手も「私が努力したからこの結果がある」とは言わない。「全ては応援してくれた人々のおかげです」と宣言するのが一種のお約束になっている。実は消費されているのはかわいそうな障害者だけではない。スポーツ選手も消費の対象になっており自己主張が激しいスポーツ選手は却って叩かれる傾向にある。日本人は基本的に「わたくし」が嫌いなのだ。
このように日本人の感動は解放感と接続している。常に他人からの監視に怯える日本人は「明らかに自分より格下」である障害者や全てをなげうって自分たちを感動させるために走る人を見るとホッとするのだろう。やす子の人選もこれに沿ったものだ。日本のお笑いにはいじめの構造があり「立場の弱いものがいじられる」のを見るのが好きな視聴者が多い。いじめとイジりの境界は「その人の存在を排除するか」「許容してイジるか」なのでその境界を踏み越えたフワちゃんは芸能界追放となった。
しかし、こうした傾向に違和感を持つ人も増えている。最近では、酷暑の中で肩を壊すまで投げ続ける甲子園は非人道的とされるようになった。「すべてを犠牲にして周囲を感動させる」ことが美しいという通念も日本からは消えつつある。
おそらくはメインストリーム・チャリティへの一種のカウンターから始まった24時間テレビはメインストリーム化するなかで人々が潜在的に持っている差別意識を開放し大きな化け物に成長していった。ただしこの差別意識を薄々感じ取り「感動ポルノだ」と考える人も増えている。ここで台風を理由にマラソンをやめてしまうと「なんだマラソンがなくてもチャリティは成立するんだ」となってしまうのだろうし、そもそも24時間テレビがなくても夏は終わるということが明らかになってしまう。
それは日本テレビにとって「自己否定」でありなんとしても続けなければならない。そのためやす子は意味もなく競技場をぐるぐると走り続けることになる。
そもそもすべてをなげうって無理をすることが感動を呼んでいるのだが、それも「コンプライアンス的にはNG」ということになりつつあるようだ。無理をさせる姿を消費しつつ、番組が無理をしないように呼びかけるというもはや意味不明な状態になっている。
番組スタートともに日産スタジアム現地の様子が映されていたが、すでに大雨。総合司会を務める上田晋也は「くれぐれも無理しないようにな!」と何度も心配。さらに「15分で辞めてもいいんだからな!」とエールを送っていた。
『24時間テレビ』、競技場周回マラソン開始 やす子「やらないよりはやった方が」 募金額は既に4635万円
だがもはや意味がわからない状態になっても日本人は「一度作られたもの」を崩すことができない。24時間テレビを停止するためには中にいる人が誰か「やめます」とか「チャリティの本質に立ち返りませんか」といわなければならない。今の24時間テレビは「御聖断」が必要だった第二次世界大戦と同じようなメカニズムなのかもしれない。