自民党の総裁選の前哨戦ではまだ誰も政策らしい政策を打ち出していない。本来なら「なぜ政策を出さない?」批判が起きても良さそうだがそのような声は聞かない。おそらく日本人の有権者はそもそも政策には興味がないのだろう。むしろ「なぜ野党を批判するときだけ政策が問題になるのか?」が重要な問いかけになる。
背景を掘り下げてゆくと、日本独特の強い縛り合い内向的な社会が問題を複雑化させていることがわかる。また、右派と左派が少なくとも言論空間を自らの利権として囲い込み少なくとも10年以上も思い込み強化訓練を実施した惨憺たる帰結ともいえる。
日本が問題解決型の議論社会に移行する道のりは極めて険しいと言わざるを得ない。
日経新聞の「次の総理」調査で小泉進次郎氏が石破茂氏を追い抜いた。いくつか理由が考えられる。
- 「誰が総理になりそうか(みんながどう考えているのか)」を察知してそれに同調したがる人が一定数いる。
- 石破氏は政権から距離を起きご意見番として活躍してきた。自民党を中から変えて欲しいと言う期待を持つ有権者は石破氏を推してきた。だが「起こるはずがない」と思いこんでいた世代交代を意識するようになった有権者は「更に大きく自民党が変わる機会があるのでは」と考えて小泉氏に期待するようになった。
このことから次のことがわかる。
- 日本人は大きな変化を嫌い直接的な関与も嫌がる。「中から、穏やかに、変えて欲しい」と考える傾向にある。
- 日本人は自分の意権が周囲から突出することを嫌う。
ビジネス商談ではよく「提案型の議論をお願いします」などと言われることがある。腕利きのセールスマンは「自分の思いを提案しても却下されるだけ」と知っている。相手の思い込みをうまく織り込んだうえで「こちらからご提案差し上げる」という体裁を作らなければならない。さらに「選んだ感」を与えるために3つほどの案を提案するのが定石とされている。日本人は自分の意見を言うのは嫌いだが強い思い込みを持っている。
小泉進次郎氏に対する期待も思い込みによるものだ。
- 事前にThe Matchというプロモーションビデオが流され「自民党をぶっ壊した」小泉純一郎氏が起用されていた。そこから小泉進次郎氏に対する期待が自動的に膨らんだ。
- 小泉進次郎氏は子育て世代だ。妻のクリステルさんは自立していて進次郎氏にも子育ての参画を要求している。だから「進次郎氏は子育て世代のことがわかっている」という期待がある。しかしおそらくこれは週刊誌などから仕入れた」「情報」だろう。
ここで重要なのは思い込みは言葉ではなく周辺情報から組み立てられているという点にある。
- 当事者や周囲にいる人達が「自分は子育て世代に優しい」と主張しても「それは本当なのか?」という警戒心が生まれる。特に子育てに参加してなさそうな男性高齢者が「こども政策を推進します」などと言っても誰も期待しない。あくまでも言葉ではなく「属性」が大切なのだ。
- 例えばこども家庭庁の責任者は加藤鮎子氏と言う女性だが「どうせ自分では何も決められないだろう」と思われている。しかし総理・総裁は「自分で決められる人」である。日本人は関係性や属性に極めて敏感だ。
- さらに「そんなのは思い込みに過ぎないのでは?」と言われると「いやそんなことはない」と思い込みを強化する傾向にある。
そもそも「言葉より属性」が大切なのだから言葉でいくら政策を語っても「人は嘘をつけるし……」として信じてもらえない。それどころか「この人たちは私を騙そうとしているのでは?」という警戒心さえ働く。この警戒心が思い込みの強化につながっている。
言葉の無力さを痛感している人は多いだろう。夫が妻を実家につれてゆく。妻はキャリアを大切にしたいので子供はまだいらないと両親を説得するためだ。事前に両親に説明し3時間ほどかけて事情を説明する。両親はウンウンと聞いてくれる。そして最後にこういう。
でもやっぱりお母さんは孫の顔が見たいわ。だって子供がいない家庭なんて不幸でしょ。
警戒心が強く周囲に同調する傾向が強い日本人は自分の意見と周りに示す行動を完全に分るする傾向がある。そして言葉は核心的な価値判断には到達しない。
日本人は外からの脅威に対する警戒心と思い込みが非常に強い国民性を持っている可能性があるといえるだろう。外からの脅威に対する警戒心が強いのは日常から自分たちが極めて苛烈な他者監視と他者批判を行い、かつ自分の意見と社会的同調行動を分離しているからだろう。
では政策(言葉)を信じない日本人はなぜ「野党は政策がない」「野党は国家観がない」と批判するのか?
- 自民党はちゃんとした国政政党なので、総裁候補になる人は当然国家観と政策を持っているはずという思い込みを持っている。
- 野党はちゃんとしていないので、当然国家観も政策もないだろうと言う思い込みを持っている。
実はこれも思い込みなのだ。
このため野党がいくら政策を言葉で語っても無駄だ。そもそも言葉を信じない上に信念を否定されるといやそんなことはないと却って思い込みに閉じこもってしまう人が多い。
では過去業績は「数値化してわかりやすく提示するのが良いのか?」ということになるのだが、これもまた間違っている。重要なのは「印象」である。成果を言葉で説明しても「言葉を信じない」原則に抵触する。逆に成果が出ていなくても「影響力があるみんなが成果があると言ってる」という印象さえ保つことができれば良い。
- 日本人は警戒心が強く議論をしないので問題を共有できず論理的思考能力が訓練されない
のだ。
警戒心の強さ・他人に対する強すぎる監視・自己の脆弱さは論理性の社会訓練の欠如となって現れる。最近ではこれが一段回進んでいる。それがエビデンス信仰だ。日本人は実名では議論しない。正直な意見表明は自殺行為である。だがSNSでは議論が氾濫している。
自分の思い込みに反する書き込みをネットなどで見ると強い反発心を覚える人がいる。しかし警戒心の強さから言語化能力が磨かれていない。さらに「議論にはエビデンスというものが必要」でありなおかつ「論破して勝たなければならない」という思い込みもある。右派と左派が少なくとも言論空間を自らの利権として囲い込み少なくとも10年以上も思い込み強化訓練を実施した惨憺たる結果だろう。
このため自分の意に沿わないと投稿を見ると
- エビデンスを示してください、納得するまではその意見は採用しません
と宣言し自分の主観に満ちたエビデンスのない意見を匿名で(実名だと批判される可能性があるので)長々とぶつけるような人が増えている。
こうした寒々しい言論空間を改良するためには「まずは穏健な意見をぶつけ合っても問題にならないのだ」という場所を作る必要がある。右派論壇・左派論壇とも後継者不足に悩んでいるようだがこれは政治的議論を利権として囲い込んできた代償である。まずは砂漠化した言論空間を正常化する必要があり、議論によって問題解決ができる社会などまだそのずっと先の蜃気楼のようなものである。