このエントリーでは政治を離れ社会構造の分析を行う。ここからなぜ日本の左派運動に浸透しないのかを観察し、最後に標準還相について触れる。
テーマは「ご意見番」としての和田アキ子の引退だ。その前にフワちゃん騒動について分析する。
フワちゃん騒動が収まらない。フワちゃん騒動がここまで大きくなったのは日本社会の本質と崩壊という問題を内包しているからだ。
日本のお笑いの本質はいじめである。そしていじめにはニーズがある。だがいじめはシャレにならない。だから、いじめの代わりにいじりと言っている。相撲部屋がいじめをかわいがりと表現するのと同じだ。
フワちゃんはこのいじめといじりの境界を越えた。だからフワちゃんは芸能界に復帰できない。彼女を批判する人たちも一体自分たちが何を批判しているのかがよくわかっていない。自分たちが説明できないからフワちゃん側に説明責任を負わせいつまでも「反省が足りない」などと言っている。
いじめといじりの境界とはなにか。
芸能界のいじりは「社会的最下層に置かれることで存在意義を認めてもらう」という前提で成り立っている。そしていじられる側はこれを「本質ではなくビジネス上の役割だ」と再定義することで自分を守っている。このため日本のテレビ芸能には容姿や知性などで序列が作られ「ブサイクタレント」や「おバカキャラ」などという概念が作られている。
ところがフワちゃんは「最底辺に置かれることで排除されない」というコードを破った。具体的には「死んでください」のワードがタブーに触れた。そしてやす子さんがこれを真に受けた(つまりビジネス上の役割ではなく個人攻撃だと受け取った)時点でゲームオーバーになった。
これはシャレにならないと感覚的に受け止められた。だが誰もあえて言語化しない。分析の過程で「日本社会がかろうじて成り立つためにはいじめが必要だ」と考えなければならなくなるからだ。
- いじり:あくまでも「虚構」であり、最低限の存在は認められている
- いじめ:排除が目的で、相手もそれを深刻に受け止めている
欧米のお笑いは矛先が権力者やちょっと変な人に向かう事が多い。つまりベクトルが上に向いている。ところが日本のお笑いはベクトルが下に向き弱いものが嘲笑の対象になる。日本では多数派が少数・弱者を笑うことがビジネスになる。
ではその傾向はいつ頃からあるのか。
萩本欽一は年上ではあるが不要領な坂上二郎と組んだ。坂上をいじるのがコント55号の面白さだった。Wikipediaに興味深いエピソードが掲載されている。タクシー運転手から「刑事さん(坂上二郎はその頃ドラマに進出し刑事役を演じていたそうだ)をあまりいじめないでくれ」と言われ「コント55号はもう持たない」と感じたという。萩本欽一はそこから新しい構造のお笑いを生み出す。お笑いに慣れていない素人同然の人をパートナーや演者にしそれを笑うという構造が作られた。結果的に坂上二郎を希薄化して増やしたのだ。
この傾向には例外があり「ボスをいじる」という構造のお笑いもある。だが、いじりの構造は、オレたちひょうきん族・ダウンタウン・とんねるずなどに引き継がれてゆく。この構造で成功したのが松本人志だった。「センス」という評定不能なものを持ち出し「センスがないものを笑う」という独特なスタイルが生まれた。松本人志に同調することで視聴者は「自分たちは笑いがわかっている」と感じることができる。松本さんの場合はこれが楽屋裏で権力構造化して行き現在は法廷闘争が行なわれている。
ではこれはお笑いだけの傾向なのか。
日曜日にアッコにおまかせ!と言う番組が放送されている。和田アキ子という「ご意見番」が世相を斬ると言う番組だ。この番組で和田アキ子は支持者に取り巻かれており和田アキ子が権威者であると演出されている。支持者たちは和田アキ子を称賛し多数の側から失敗した存在を批判する。
極めて権威主義的な傾向が強く松本人志の「笑い」と同じ傾向がある。和田アキ子に同調することで視聴者は自分たちは多数派であると感じることができる。
日本社会では多数派こそが正義とされる。だが多数派が多数派であるためには「逸脱した敗者」が必要だ。それをジャッジするのは和田アキ子のような権威者でなければならない。番組にはいじめの構造があるが視聴者はそれをいじめとは見ていない。社会正義の遂行だと感じるだろう。
その和田アキ子が炎上している。試合の途中に姿勢を整えてリラックスするための北口榛花さんがコンディションを整える体勢を「トドみたいだ」と発言した。和田アキ子は大衆が勝者でいるために少数の敗者を笑いのめす先導者と言う役割を持っている。つまり大衆との間に感覚的な合意がなければならない。今回の金メダリストに対するいじりは「あれはアウトだろう」と判定された。SNSの台頭で世論は多様化し和田アキ子は世間の感覚からずれ始めている。あるいはそもそも単一の世論が日本から消えつつある。
だが「大衆が何を感じているのか」を恐る恐る探りながらご意見番を続ける和田アキ子を見てもちっとも面白くない。「引退」はやや過激な表現だが、アッコにおまかせ!はもはや番組として成り立たなくなりつつあり、ご意見番としての和田アキ子さんは賞味期限切れだろう。
日本のお笑いは微妙で曖昧な非言語コードで成り立っていた。いじめといじりの境界は極めて曖昧だが、多くのお笑いタレントたちはその傾向をきちんと理解している。アッコにお任せ!にも勝俣州和のような頭の良い「裏回し」がいる。彼らは和田アキ子が社会常識からずれていることがわかっており「和田アキ子を笑う」ことで問題が深刻化しないように務めてきた。ところがこの裏回しでも制御できない言動が増えている。
フワちゃんももともとはYouTube出身でありテレビのお笑いコードを理解していないものと見られる。この世代には暗黙の了解だった「いじめといじり」の境界が理解できなくなっている。今後、集団生活を経験しないタレントが増えるにしたがってテレビ芸能としてのいじりを前提にしたお笑いは成り立たなくなってくるだろう。微妙な「いじり芸」がどこから生まれたのかはわからないが、吉本興業が徒弟制をやめて学校制度を取り入れたことから生まれた可能性がある。つまり育成しシステムが代わると暗黙の文化コードが維持できなくなる。またそもそも「日本のお笑いはいじめをフィクション化したいじりで成り立っています」などと教えることはできない。
そもそもなぜ「いじり芸能」が必要とされているのか。それはいじる対象を作ることで「自分は最下層ではない」と感じたい人が大勢いるからである。
江戸時代には士農工商と言う身分制度があった。士身分が農工商を支配する身分制度だが農工商の人たちは自分たちを最下層だとは思いたくない。そのために次第に身分外の被差別の存在が作られていった。「下を見て暮らせ」というわけだ。実は令和の時代にも同じような身分に対する考え方が残っているということがわかる。
日本は失敗したものを叩く社会と言われる。失敗したものは「あるべきレール」から外れたが故に農工商という平民身分から脱落し被差別の存在になったという考え方が残っている。平民身分が現在の生活を維持するためのインセンティブにもなるが脱落を恐れるあまり変化を嫌うと言うネガティブな効果のほうが強くなっている。
ここから日本の左派運動がなぜ盛り上がらなかったのかもわかる。左派は進歩のために一歩を踏み出した勇気がある存在とはみなされず「平民階層を脱落した存在だ」と捉えられる。また左派も自分たちの存在を身分として捉える傾向があり被差別意識を募らせてゆく。日本人にとってはかなり根深い問題でありそこから抜け出すのは難しい。とにかく現在の日本の政治運動は「弱者・弱者と関わっている」と認知された時点で終了する。
この問題の対極には「平民身分を失うことを恐れて一歩を踏み出せない」人たちが日々「脱落した人たちを監視する」という非常に閉塞的なネット空間を生み出している。
昭和には標準家庭・標準世帯というあるべき家庭像があった。だが正社員が減り、副業や転職が一般的になり、非婚世帯も増えている。政府は未だに試算のために標準家庭・標準世帯を使っているが、大和総研は「5%に満たない」と言っている。実は「多数派」はすでに幻想になっているが、人々は未だに標準幻想に囚われ続けている。
標準が曖昧に慣ればなるほど逸脱を笑うニーズが高まる。そしてそれは「多数派」をありもしない標準に閉じ込めてしまうのである。日本社会は標準概念の奴隷になっている。
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