不倫疑惑のあった広瀬めぐみ参議院議員に強制捜査が入った。容疑は詐欺だった。3月にすでに週刊誌報道が出ていたが自民党も所属派閥(麻生派だそうだが)も何も対策していなかった。
どうしてこうなったかを考えると「自己愛型の政治暴走」に行き着く。公共という概念が政治のみならず日本政治から消えた結果、アパシー(無力感)を伴った自己愛暴走型の政治家が増えている。自己I型の政治とはわかりやすく言えば誰もが「いいね」を欲しがる政治だ。
広瀬めぐみ議員の容疑は国家に対する詐欺だそうだ。華やかな見た目と立派な経歴(弁護士だ層だ)からは想像ができない。おそらくこの経歴なら詐欺など働かなくても弁護士として良い暮らしができたはずである。
第一秘書の妻の名義を借り勤務実態のない名目上の第二秘書にしていた疑いが持たれている。実はすでに週刊誌で3月に報じられていた。つまり自民党も麻生派も対応しようと思えば対応できた。が、何もしなかった。そして形式的に広瀬氏に離党届を書かせ「自民党は関係ない」ということにしている。広瀬議員も後で説明しますと言って逃げてしまった。おそらく誰もまともな説明はしないだろう。
この間、なぜ自民党も麻生派も対応しなかったのか。
対応しても褒めてもらえないからだろう。支持率アップに寄与しない。すでに岸田政権の支持率は底辺を彷徨っており「堀井学と広瀬めぐみのあわせ技にも影響がない」状態だ。岸田政権は支持率が上がるあてもないのに矢継ぎ早に場当たり的な提言を繰り返している。
なんとなく全体的に沈滞していることはわかる。だが、このダラダラとした政治状況の説明がつかない。「野党が受け皿にならないから油断しているのだろう」と表現してもいいがどうもそれだけではない気がする。
みんな「いいね」を欲しがっているが誰も評価してくれない。そんな感じに見える。
目を転じて斎藤元彦兵庫県知事のケースを考えたい。見た目が爽やかな中央省庁出身者だ。だが兵庫県知事になると見た目と処遇に固執するようになる。明らかな自己愛型だ。だが実際に自民党と維新の関係者は華やかな経歴と爽やかな見た目に目を奪われていた。有権者にはこういう人が受けると彼らは知っているのだ。
石丸伸二氏もネットの論破王と言う見た目が支持されて躍進した政治家だ。経済アナリストの経歴があり論理的で立派な人だとも思われていた。しかしながら安芸高田市での評判はあまり良くなかったようで二期目は難しいだろうと言われていたようだ。YouTubeで「いいね」を稼ぐために犠牲になった人は多い。また都知事選のあとのテレビ出演は大惨事と言ってよい。ネットでは石丸構文を分析するというコンテンツも作られておりすでにネタとして消費されている。
このように近年の選挙では「見た目」が重要視されることが増えている。しかしながら、その見た目を維持するために裏ではかなりの無理をしなければならない。特に自分の配下であるスタッフには厳しく当たること人が多いのも特徴だ。スタッフは協力者ではない。自分の見た目を良くするために利用できる道具に過ぎない。
ここで見た目型の政治家ばかりを挙げても彼らの特徴は見えてこない。「非見た目型」の政治家に石破茂がいる。憲法九条の問題を取り上げ「保守票をまとめようとした」などと言われたが夫婦別姓にも切り込み「保守を牽制した」と評価された。現在のマスコミは石破茂氏の評価に苦慮している。
石破氏にはおそらく「政治はこうあるべきだ」という個人的良心がありそれに基づいて行動しているのだろう。政治がこうあるべきだと考えるためには「社会や公共」を意識しなければならない。石破茂氏は昭和の生き残り型の政治家と言えるだろう。「政治家は公共善を語るべき」と考えられていた時代の化石だ。
そう考えると麻生太郎元総理や岸田文雄現総理から「政治や社会はこうあるべきだ」というメッセージを聞いたことがない。平たい言い方をすれば国家観や政治哲学がない。表現したとしても誰かが書いたものをそのまま読んでいるような薄っぺらい印象がある。
特に麻生太郎氏はおそらくかなりの自己愛型だろう。祖父吉田茂のような見た目を目指しクラッシックな帽子を被っている。だが岸田総理も主語に「私が」が多い。「私の内閣では」などといつも語っている。岸田総理や麻生元総理が今回の件で何もしなかったのは「党内の綱紀粛正しても自分の評価につながらないから」だろう。
ただ、今回の広瀬さんの強制捜査のニュースに有権者はさほど驚かなかった。政治家とはそんなものだと思われている。有権者の中から「政治や社会はこうあってほしい」という理想が消えていることがわかる。日本人は政治ニュースにさほど関心を寄せない。それは自分の関心領域ではない。むしろ、彼らはSNSの投稿で「いいね」と褒めてもらいたい。そして「いいね」のために多少の無理をしている。写真映えしないところでは何をしているかわからない。
SNSで「いいね」に溺れている人は反省などしない。何度も投稿を繰り返しいつかバズる日を夢見ている。つまり現在の政治家の姿は今の日本を映す鏡に過ぎないと言えるだろう。
このようにして日本社会からは「社会はこうあるべきと語る」という概念そのものが消えかけている。誰も彼もが誰かに個人的に褒めて欲しいと思っているが誰も褒める側には回らない。むしろ周りの投稿に目を光らせていて何かを見つけて減点してやろうと言う人も多い。自分が認められない苛立ちが減点に向かうのかもしれない。
とにかく評価してもらいたいと言う自己愛とどうせ誰にも評価してもらえないのだから何もしないという諦めが表裏一体になっている。
不倫疑惑で有名になった広瀬議員は「後で説明します」と報道陣の前から姿を消した。おそらく彼女が説明することはないだろう。「いいね」を得られる見込みはない。