世界では様々なニュースが進行中だ。国際政治の専門家たちは「民主主義陣営がこの先どうなるのか」ということを本気で心配している。
だが日本語だけで情報を取っている人たちのメンタリティは至って平和である。それを象徴するのが「蓮舫対朝日新聞事件」である。個人的には蓮舫氏サイドを応援するつもりだ。
だが、俯瞰してみると「なんだかなあ」という気もする。個人と集団が癒着しているためなんの振り返りもできていない。
まず事件の詳細を知らない人のためにあらましを整理する。ある半匿名アカウントが「蓮舫氏と共産党の関係」について投稿した。ところが最後に「自分を支持しない、批判したから衰退しているって、自分中心主義か本当に恐ろしい」という個人批判を混ぜた。そしてその投稿は朝日新聞の有力な記者のものであるということがわかった。蓮舫陣営は色めき立ち、蓮舫氏は「このままでは済ませない」と言っている。
蓮舫サイドを応援するのは「個人攻撃」と政策批評・政治運動批評が入り混じった政治言論を危惧するからである。特に朝日新聞という大きな新聞社の記者が両者を区分せず「個人の見解」と「会社の見解」を便利に使い分けることは日本の政治言論に取って大きな問題がある。
ただ、冷静に考えると蓮舫陣営の指摘には2つの大きな問題がある。
- 「法的な」といっているが、一体蓮舫氏サイドが何を目指すのだろうかという疑問がある。単に裏打ちのない個人の見解を述べただけで虚偽の内容を流布したわけではない。
- 次に朝日新聞が社員の投稿に責任を取らなければならない理由がわからない。責任を取るとしたら一体何に対して責任を取るのかもはっきりしない。
いずれにせよ記者は「お騒がせした」としており朝日新聞社も広報を通じて謝罪しているそうだ。何に対して謝罪しているのかはさっぱりわからない。アメリカにはジャーナリストのコミュニティがあり「ジャーナリスト倫理」などが研究されている。だが、日本の報道はそのモノマネに過ぎない。つまり「ジャーナリズムごっこ」なのだ。この程度の総括しかできないのだろうと感じる。
細かな分析は避けるが双方とも「課題」と「人格攻撃」の境界が曖昧になっている。また個人(記者)と集団(新聞社)の関係も曖昧だ。この癒着がタールボールのようになっており問題の解決や課題の抽出などが難しくなっている。
蓮舫サイドの個人と集団の関係も曖昧になっている。支援者たちは「推し活動」を通じて個人と集団が癒着しており、蓮舫氏個人への攻撃も「運動体」としての活動方針のまずさもごっちゃになっている。
石丸陣営にも言えたことだが
- それって「私達のせいなの?」「私達が悪いの?」
がキーワードだ。
日本で政治に興味を持っている人たちの多くは問題解決にも世界情勢の把握にも全く興味がない。朝日新聞の有力な記者はジャーナリストとして持つべき「課題と人格を分離する」という基本原則を全く理解していない。繰り返しになるがジャーナリストがコミュニティを作らずムラを作ってジャーナリズムごっこをやっているというのが実情である。
リベラルと言われている人たちも被害者意識をつのらせて行き「何でもかんでも私達のせいなの」「私達はいじめられているの」と感じているようだ。一部「あまりにも内輪な政治活動が無党派層を却って遠ざけたのではないか」という冷静な分析もでているがおそらく被害者意識に囚われた人たちの耳には入らないだろう。
いずれにせよ世界情勢が激変する中で前近代的な個人と集団の癒着から離れることができていない。日本の政治が全般的になんの総括もできないのは当然なのかもしれないと感じた。
コメントを残す