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意識高い系がようやく政治参加した若者のやる気を削ぐ 東京都知事選挙の「なんか気持ち悪い」総括の数々

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浜田敬子さん(@hamakoto)がポリタスの一部を流していた。ネオリベが内面化し当たり前の物となり公共性へのシンパシーがなくなってしまいそれが支持されてしまうという分析になっている。浜田さんは共感性のなさは時代の徒花(あだばな)であると論評していたが共感がないのは浜田さんの方なんだろうなと感じた。

意識高い系はかえって石丸派を活気づかせ日本の言論空間を破壊するだろう。原因ではないが砂漠化と破壊に加担している。

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ポリタスの切り抜きはここから見ることができる。

よく、最近の若者は……という。切り抜きはそんな内容に仕上がっている。では、実際の最近の若者というのは政治や社会にどのような感覚を持っているのか。Quoraで付き合っていると次のようなことがわかる。一言でいうと国語の砂漠が広がっている。

  • まず、ルールに従ってまともな文章が組み立てられない人が多い。Quoraは質問サイトなので?を付けて質問するというルールがあるが、これがわからない人が大勢いる。「質問と意見」の区別がついていない人も多く自分の主張に?を付けたものが横行している。
  • スマホで見ている人はワンスクロール以上の文章が読めないし書けない。これは段落のある文章=論理的な展開の消失を意味する。1ブロックでは感想しか書けない。
  • 文献を付けた文章を書いても「その文章は読んでいませんが」「報道は知りませんが」と自分の主張を一方的に言ってくる人が多い。相手の考えを理解することは時間の無駄だと思っている。
  • ただ、一部の人達は文章がきちんと書ける。きちんと書けるが社会的な問題について問題意識を持つ問いを立てることができない。おそらくそんな文章を見たこともなく政治が問題を解決しているところを見たことがないからだろう。ただ「大人たちが政治について語りなんかいい気分になっている」ことだけは理解できている。

石丸伸二さんはこの砂漠化した言論空間に対する一つの解だった。つまり細かいことは書かずに「悪いのはあなた達ではない」というメッセージを繰り返し投げかけた。彼はマスコミとの対話を破壊・解体し自分の主張だけを繰り返す。確かにそこには弱者や複雑な社会問題は存在しない。

今回、TBSラジオでのやり取りが注目されている。石丸氏は「どうせ読んでないでしょう」と議論の無効化を試みたが、コメンテータたちは「いいえ付箋を付けて熟読しましたよ」と返したそうである。石丸氏は応答できなかった。石丸氏はテレビの刹那的なやり取りは乗り切れたが、まとまった時間が取れるラジオには対応できなかったようだ。

彼の「在り方」は二人の政治家によく似ている。それが安倍晋三元総理とトランプ前大統領だ。

安倍晋三氏個人に政治家としてのテーマはない。小泉純一郎氏から作られた政治的スターであって「政治的スターで在り続けること」が彼のテーマだった。だが、安倍晋三が否定されればされるほど「既存の政治が理解できない」人は彼を支持するようになっていった。排除が彼をスターにした。

トランプ前大統領にも政治家として達成したいものはない。彼は自己愛に満ちた存在であって「自分は偉大な人物でなければならない」と考えている。彼にはなにもないからこそ眼の前にいる人達に何を言えばウケるのかがよくわかっている。そして彼を排除しようとする人と戦うことで支援者を引き付けている。

現代にアピールする政治家には特徴がある。「政治家としてやりたいことがない」からこそ周りが何を欲しがっているかよく分かる。支援者たちはその「空・虚」に惹きつけられる。神社に置かれている鏡と同じようになにもないところに美化された純粋な自己像を勝手に投影できるからである。これが信仰の対象となり神と呼ばれる。これが「ネオリベを内面化した」の正体だ。参拝者は社会には関心がない。彼らが関心を持っているのは自己だけなのである。

参拝者たちはそれを否定しようとする人たちと戦うことで「支援者のために戦う自己像」を維持し続ける。これはある種の信仰だが実際に拝んでいるのは自分自身だ。

浜田さんの投稿には多くの共感コメントが付いている。どれも「石丸さんに投票した人たちの何が欠落しているかよくわかった」というものだった。中には違和感を感じた人もいるようだが言語化まではできていない人が多い。交換可能な部品であると書いている人がいるがおそらくこれは正しい感覚だろう。「政治的主張がない=押し付けない」人であれば別に誰でもいい。

そしてこれこそが石丸派に次の活力を与える。ナルシスティックな信仰に支えられた人たちはこれを個人への攻撃とみなし守護者を存在を求めるようになる。

安倍晋三元首相を空虚だと指摘すると反論が出てくるだろう。だが仮に彼が政治運動であったのならそれを受け継ぐことが可能だったはずだ。しかし実際には憲法改正一つとっても誰も何も実現できていない。安倍という核が空虚だったからこそ本来結びつくべきではないものを結びつけることができた。

彼の支持者が実際に見ていたものは美化された自分の内面だけだった。だから安倍氏が亡くなったあと誰も憲法改正を実現できない。そもそも彼を熱心に支持していた人は岸田総理の憲法改正は支持しない。岸田総理は負担を押し付ける敵だと認識されている。また岸田総理はリーダーシップを全面に押し出しすぎる傾向がある。支持者たちが期待するナルシシズムには応えられない。

空・虚に「純粋ななにか」を見て「初めて政治が明確に理解できた」と感じた人たちが次に出会うのは「そんなのは政治ではない」という大人たちである。ここで彼らは確信する。「ああ自分たちが最初に倒すべきなのは彼らなのだ」と。鏡に移してみないと自分自身の姿に気が付けないが、彼らが持っている鏡には補正装置がついている。まるで「写真が盛れるスマホ」みたいなものだ。

そもそも彼らは複数段落の文章は理解できない。故に彼らは「なんか自分たちが否定された」「若者に政治に参加しろというから投票したが自分たちが気にいるるような行動を取らないと否定するんだな」くらいしか感じない。それすら言語化できず「なんか感じ悪いね」で終わってしまう人もいるだろう。

安倍晋三元首相は議論を無効化し続けた。反安倍運動は盛り上がったが疲弊したのは反安倍運動の方だった。純粋な反対運動だけが生き残り問題解決をしたい人たちは政治から撤退した。今回の蓮舫陣営にもおそらく反安倍の人たちが多く参加したと思われるが無党派を遠ざけただけだった。

アメリカではトランプ的なものに引っ張られトランプに対抗できるものとしてのバイデン大統領が誕生した。バイデン氏がトランプ氏に対抗すれば対抗するほどトランプ運動は盛り上がりを見せる。結果的にバイデン氏がトランプ氏と対抗することに疲れ果ててしまい燃え尽きてしまった。やりたいことは何もできずテレビ討論会では抜け殻のような姿をさらすことになった。民主党はトランプの再来に怯えており一種のバイデンおろしパニックに陥っている。

トランプ・安倍という空・虚は一部の企業家にとって見れば非常に便利な存在だ。騒ぎが大きくなれば本来チェックすべき社会問題からの目くらましになる。直感的に「石丸氏は便利な存在だ」と感じた人は多かったのではないか。政治的討論のリソースを浪費し対話を無効化すると、その裏でやりたいことができるぞと気がついただろう。

さて、蓮舫氏に対する個人攻撃が増えているようだ。「水に落ちた犬は叩け」ということだろう。課題と人格が分離できないのも日本的政治議論の特徴である。確かに蓮舫陣営には問題があった。都知事選の問題の立て方は間違っていたし周囲を囲んでいた人たちは無党派層を却って遠ざけた。だがこれは「蓮舫氏が悪い」のではない。蓮舫氏のやり方がまずかっただけなので学び直せばいい。

立憲民主党はここから学ぶべきなのだろうが個人攻撃に過敏に反応し被害者意識を募らせている。辻元清美氏のように「もう私って古いのかしら?」と言っている人もいたが彼女は何も考えず「いやそんなことはない」と思考停止に陥っている。組織的課題と個人の価値を分離することができていない事がわかる。批判する人も批判される人も、問題を「個人的に」受け取っているためそこから教訓が得られない。自分を攻撃されて嬉しい人などいないが「課題と人格の分離」はなかなか難しい。

立憲民主党はこれまで「自分たちが勝てないのは無党派という金脈に到達していないだけだ」と考えていた。だが彼らが目指した金脈は石丸派だった。政治的に見れば単なる鉄屑に過ぎない。立憲民主党・国民民主党はこの事実に戸惑っており「総括」をする予定になっている。小沢一郎氏は泉代表では勝てないといい玉木代表は共産党と組んだのが間違いだったと言っている。

ここまでは「日本の無党派層はバカだ」という前提で話を進めてきたが、厳密にはこれは正しくない。政治という目は無党派というスペクトラムを部分的にしか見ることができていない。つまり赤外線もあれば紫外線もあるということだ。

AIエンジニアの安野貴博陣営はすでに総括を始めている。つまり日本にも問題解決志向が高く「黙っていても失敗を総括し学ぶ」という前向きで優秀な人たちが存在する。だか、彼らは同時に日本社会は問題解決にも学びにも興味がないと気がついたようだ。テレビは政治はプロレス(西村ひろゆき氏はこれを「揉め事」と表現している)であるという前提で議論を組み立てたがる。なぜならば見ている視聴者がみんな政策など理解できないバカばかりだからだ。

西村氏はこの経緯について「選挙中、取材で呼ばれたのに安野さんだけがカメラを向けられなかった。『視聴者は政策ではなく揉め事に興味がある』という理由らしい」と皮肉を込めて投稿。

彼らは自分たちで問題を解決しビジネスチャンスを作ることができる。おそらく彼らは日本社会を相手にしなくなるだろう。意識高い系はバカは理解できるが自分たちより優秀な人達は可視化できない。人口比では160万人と15万人なので1:10ということになる。彼らを政治に組み込むことができるかあるいは絶望させてしまうかで今後の日本の政治言論の行く末は大きく変わってくるのかもしれない。

今回は2本の記事を書いた。欧米では中流層が崩壊したことで民主主義の基盤としてのエコシステムが緩やかに崩壊しているという内容だ。日本は経済的には全体が沈下している状態なのでこうした状況は生じていない。だが「中流の階層の国語能力」は砂漠化している。そもそも意思疎通の基盤が崩壊しかけているのである。

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Comments

“意識高い系がようやく政治参加した若者のやる気を削ぐ 東京都知事選挙の「なんか気持ち悪い」総括の数々” への2件のフィードバック

  1. 細長の野望のアバター
    細長の野望

    石丸氏の議論の無効化部分を読んで、安倍総理が生きてた頃に出演していたNEWS23という番組内で4000ページを読んでいないでしょと安倍総理が出演者に言ったら、読みましたと返されたことを思い出しました。
    「中流の階層の国語能力」の砂漠化はなぜ起きてしまったのかと考えました。安直な考えですが、Youtubeなどの動画文化、特に最近の一分以内のショート動画や、旧Twitter(現X)のような140文字しか書けないSNSの登場などが影響してるかなと思いました。まぁ、それらが出る前から匿名掲示板では長文や読点に対する嫌悪や、「3行にまとめろ」という言動があったので、結構前から能力は下がり続けていたのだろうと思います。そして、それが表面化しやすくなったのだと思います。
    「社会的な問題について問題意識を持つ問いを立てること」についての能力は、仕事などで日常的に行わないと身に着けることは難しいと思います。そういった能力を持った頭のいい人たちが勝手に社会問題の掘り起こしと解決方法の模索やってくれというのが多くの人の本音なんじゃないかなと思います。

    ※蛇足
    今回の都知事選で驚いたのは、56人も出馬しているのに新聞などに載せている公約にLGBTQに関するものがなかったことです(演説活動やNHK放送で言及しているかもしませんが)。東京都で56人もいるのにほとんどいないのは、そういう思想を持っている人がでなかったか、持っているが言うと不利益があるから言わなかったか、あるいはそれ以外なのか分からないですね

    1. 個人的な感想ですが、私自身は本と新聞で言い回しを覚えたという自覚があるので、本も新聞も読まないとなるとそもそも学ぶ機会がないよねって思いました。
      あと、これは言い訳ですがめったにコメントなどいただかないインタラクティブ性が低いつぶやき系ブログなので久々にコメント欄を見て「うわー」と思いました。大変失礼いたしました。