アメリカ南部ルイジアナ州の学校で十戒の掲示が義務化される。対象は幼稚園から大学までと幅広いが「ルイジアナ州の支援を受けている学校」のみが対象だ。
ジェフ・ランドリー知事のお気に入りの政策で支援者であるキリスト教徒にアピールする狙いがあるものとみられている。アメリカ合衆国には政教分離を定めており憲法判断をめぐって司法闘争が展開されるものとされているが賛成派は「これは宗教的な文書ではなく法律による統治原則を主張したもの」との主張を展開している。
ランドリー知事は「この政策は自分のお気に入りだ」とした上で法律の根拠について次のように述べている。
ランドリー知事は「公立学校における信仰強化」を目的に一連の法案に署名。式典で「法の支配を尊重したいなら、最初の立法者であるモーゼから始めなければならない」と述べた。
つまり法の支配の原則は「聖書に起源がある」と言っている。主張を詳しく見ると十戒には守らなければならない教えが書かれているのでこれは法律の起源の一つであるというのだ。
では十戒はどのようなものなのか。Wikipediaに記述がある。今回はカトリック版をご紹介する。
- わたしのほかに神があってはならない。
- あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
- 主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
- あなたの父母を敬え。
- 殺してはならない。
- 姦淫してはならない。
- 盗んではならない。
- 隣人に関して偽証してはならない。
- 隣人の妻を欲してはならない。
- 隣人の財産を欲してはならない
ユダヤ教とキリスト教は旧約聖書を共有しているのでここで言う神はキリスト教とユダヤ教の神だ。ユダヤ教のオリジナルの十戒では偶像崇拝の禁止原則が含まれる。モーゼ不在の間に民が偶像崇拝を復活させたことでモーゼが怒りのあまり十戒を打ち砕いたと言うエピソードにつながっている。当時のユダヤ世界では各地から集められた神が祀られていた。これでは民族の統一は果たせない。しかし蔓延する偶像の中から一つを選ぶことはできない。だから全ての偶像を破壊したうえで「どれでもない概念としての絶対神」を導入したのである。
つまりそもそも「神」は民族統治原則のために置かれた装置だったと解釈できるが現在では神の代わりに国民主権が置かれることが一般的である。仮に神の権威を上に置いてしまうとアメリカ人が嫌うイランと同じ「権威主義的」体制になってしまい近代的な法の支配の概念とは相容れない。
十戒を分析するとこれが教育勅語と同じ構成であると気がつく。おそらく教育勅語も国家神道の伝統ではなく一神教的なキリスト教的概念を国家神道に移植しようとしたものなのだろう。発展した一神教社会に対する畏怖から教育勅語が始まったと言う視点は日本ではあまり語られることはない。
教育勅語を推進する人たちの本音は天皇中心の秩序回復だ。ただしおそらく彼らの関心事は天皇権威の回復ではなく自分達の優位性の誇示であろう。天皇中心の秩序が回復されれば自分は尊敬できる側に回ることができると期待している。また多様性についてゆけない人たちは道徳の固定に安心感を覚えるかもしれない。教育勅語を持ち出して理解できないものをことごとく粉砕してゆけばいい。
実際に教育勅語の導入経緯について調べると「管理者が天皇権威を利用して国民を管理するための徳目である」と指摘する声もある。経済運営に失敗した日本は大陸への進出を推進する軍に期待することになり「議論」を嫌うようになった。議会政治は破綻し大政翼賛会から敗戦に突き進むことになる。
仮に最高裁がこの州法をブロックすれば共和党の政治家たちは「民主党が国を破壊しようとしている」と主張した上で「共和党系の大統領でなければこの国は無茶苦茶になる」と主張することができる。覇権国家の地位から転落しつつあるアメリカが旧秩序への回帰を望むあまり退行していると捉えることができるのかもしれない。帝国による統一が破綻し多額の賠償金を突きつけられたドイツ人は「共産党とユダヤ人がドイツの結束を蝕んでいる」と考えるようになった。アメリカはこの不純物として「多様性」が槍玉に挙げられている。
利害ではなく文化と言う主観領域で争われる民主主義は分断の危機を孕んでいる。利害は調整可能だが「どちらかの主観を正義として選べ」と言う主張には妥協点はない。正義の選択に至った政治闘争を「文化闘争」「文化戦争」という。背景にあるのは社会の変化についてゆけない人たちのアイデンティティの危機である。
危機に置かれた保守の人たちは「このままでは家族や社会がバラバラになる」と言う表現を使いたがる。家族や社会のアイデンティティと自我の道徳的優位性が癒着していることを示す表現だ。
いっけん彼らは社会に関心があるように見える。ところが冷静に考えると「すでに社会はバラバラになっている」のではないか。国民は社会や政治に関心を持たなくなる。このため新しい家族を作ることを考えなくなり非婚化が進んでいる。実質的にはすでに社会はバラバラになっているが保守の人たちはこうした実情にはさほど関心がない。
社会が複雑化するに従って起きる保守の暴走は日本でだけ起きているわけではなくアメリカにも同じような現象が見られる。
どちらも社会に関心があるそぶりは見せているが実際に関心があるのは「自分こそが社会の優位に立つべきだ」という身勝手な感情である。だが稚拙な言語感覚しか持たない人たちはこの「自己が破壊されるかのような不安」をうまく言語化できない。このためわかりやすいコードを持ち出して他人に押し付けようと考えるようになるのである。