最近、政治の現場で「国体」とか「国柄」という言葉が無自覚に乱発されるようになった。
まずは「国体」だ。最近では天皇が退位していまうと、国体がむちゃくちゃになると言っている人がいた。すぐには意図が分からなかった。
国体とは「天皇を中心とした国の秩序」というくらいの意味だろう。天皇が退位すると国体が損なわれるのは、それが国体学の起点になっているからではないだろうか。それは地動説で「地球が動く」ことが認められないのと同じくらいの衝撃を与えるのだろう。
キリスト教は地動説から脱却するのに長い時間が必要だった。しかし、地動説が否定されても宇宙が崩壊することはなかったし、キリスト教の地位も転落することはなかった。故に、天皇が絶対的な起点でなくなっても、日本が崩壊することはないだろう。多くの日本人が天皇制を支持するのは、今上天皇が平和を希求し震災被害者に寄り添っておられるからで、その存在が宇宙を支配する秩序だからではない。
憲法学者たちは憲法を聖典のように捉えている。それが部族社会の秩序を作っているからだろう。故に現行憲法が変えられてしまうとこまるのだ。同じように国体学の人たちも国体の中心が動いてもらうと困るのだ。その意味では両者は共通している。このように右派と左派は対極のように見えて共通項の方が多いようだ。
そもそも「国体」が学問として真剣に議論されるようになったのはなぜだろうか。それは明治に入って西洋文明に触れたからに他ならない。西洋文明は原理原則がはっきりしている。キリスト教は神様と人間の契約という体裁を取っており、契約は文字で書かれている。そこで日本でも「西洋に引けを取らない理論化をしよう」と思った人たちが多かったのである。
そこで、「国体」についての模索が始まったのだが、ついには体系化することができなかった。例えば神話の存在である神武天皇がいつ生まれたのかというような議論が行われた。
日本人を悩ませたのは「君主主義」と「民主主義」をどう折り合わせるかという問題だった。天皇の権威の正当化と民主主義の正当化が同時に起ったようだ。つまり、それまで外国に対して説明する必要がなかったということになる。日本には説明すべき他者がいなかったのだ。
当時の人たちがたどり着いたのは「家族が仲良く」などという、誰にでも受け入れられるような話だった。天皇を中心にしてみんなで家族のように仲良くしようという主張だ。これも変な話だ。日本のイエは「事業体」としての色彩が強く、みんなで仲良くするための単位ではなかった。しかし、他の国の家族を研究していなかったので、自分たちのことがよく分からなかったのかもしれない。
国体原理主義者が憲法に「家族は仲良くしましょう」などと入れたがるのは。これが国体運動にルーツを持っているからなのだろう。そこに「美しい秩序」を見ているのと同時に難しい議論よりも単純なメッセージのほうが残りやすかったからだろう。これが磯崎議員が「憲法は国が国民に訓示するものにすべき」という主張のもとになっている。あまりにも時代錯誤的なので「家族に介護を押し付けるつもりなのだろう」などという陰謀論まで生まれている。
この「天皇と国民は家族」という、いっけん誰にでも受け入れられそうなモチーフは後にずいぶんと悪用されることになる。例えば、若者を飛行機に乗せて片道のガソリンだけで送り出すときにも「父である天皇の為に死ね」と言われた。実際の若者は「おかあさん」などと叫びながら亡くなっていったし、言ったほうも「自分の息子」にこのような仕打ちをするとは思えない。軍部も当事者も誰も信じていなかったのだろうが、無理矢理作られた概念が悪用されるようになった。
そもそも日本の神道はこれといった聖典を持たなかった。神様の種類も多岐にわたる。例えば、太陽、月、北斗七星、岩、山などである。仏教由来の神も加えられた。七福神には外来の神様と国産の神様が同居している。そもそも「まとめる」という発想すらなかったのだ。無理矢理にまとめたために、それが悪用される素地が作られた。なかなか救いようのない話だ。
聖書の中には、外来の神様を拝む人たちに対する怒りがちりばめられている。モーゼは自分たちの民が異教の黄金像を拝むのを見て、神様との約束が書かれた板を割ったりしている。砂漠の宗教は「あれもこれも」を嫌う分離指向を持っている。一方、日本の宗教は流れ着いたものはとりあえずお祀りしておくという抱合的な指向を持っていた。このおおらかさが本来の日本の国柄だろう。
例えば英語には主語がある。まず、思考の主体が誰であるかを明確化した上でないと話ができない。しかし日本語には主語がない。このため普段の会話の中でも「私が言っているのか」「私たちが言っているのか」ということが曖昧になったりする。日本人は普段の会話で自分と他者を明確に区別する必要のない精神世界をいきていたことになる。
だから、日本人は構造が崩れたり原理原則が失われたからといって大騒ぎすることはない。ところが、意思決定のプロセスから排除されることは絶対に許せない。西洋文明が明確なルールや構造によって保たれているのと違い、日本人は同質である(べき)「我々」の間の複雑なコミュニケーションがその代わりを果たしているのだと考えることができる。
家族の遵守規定というものを持ち出して構造の安定化を図ろうとしている人たちがいるのは、その人たちが意思決定プロセスから排除されかけているからなのだ。口では「アメリカが押し付けた規範から脱却する」などと言っているが、実際には西洋流の契約をその他大勢に押し付けようとしているということになる。そして、急ごしらえで作られた原理原則はその後悪用される可能性が高いのだ。
いわば「時代遅れの妄想」のようなものなので、これに振り回されるのは時間と政治リソースのムダである。国会議論でこの妄想が排除できないのなら、そもそも議論をすべきではないだろう。
「では自衛隊と憲法の矛盾を放置するのか」という異論が聞こえてきそうだ。
日本人はそもそも絶対的な文書による契約を嫌う傾向がある。これを憲法に当てはめると、憲法は時代を経るごとに空文化するということになるだろう。平たく言うと「ま、いいんじゃね」ということになるのだ。
天皇制のもとになったのは、天皇がアポイントメントする官僚機構がもたらす秩序と、税の徴収機能だった。どちらも時代を経るごとに空文化した。残ったのは地位を与えることができるという機能だけだったのだが、地位そのものが空文化した上に、実際の地位のアポイントメントは武士が行うようになった。天皇は単なる「生きたハンコ」として機能することになってしまったのである。
憲法議論はさておき、自分たちの民族性を知るためには、他者について理解することが重要だ。日本の国柄という議論がおかしくなりがちなのは、他人を見ないで鏡ばかりを見ているからだろう。意外とよいところがあるということに気がつかないのである。