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石破茂幹事長(当時)はなぜ自民党の派閥解消に失敗したのか

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検察主導で清和会・安倍派の解体作業が進んでいる。現在は安倍派幹部たちがお互いに責任をなすりつけ合っているという報道が出ており「安倍派は国民そっちのけで自分達だけが助かろうとしている」という印象が造られようとしている。

だが内情を見ると安倍総理はかなり内部統治に苦労していたようだ。「安倍派でキックバックを止めようとしていた」とする報道はすでに出ているが政権側でも石破茂幹事長のもとで派閥改革に失敗した過去があるそうだ。

デイリー新潮に石破茂氏の文章が出ているので読んでみた。

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新潮に文章を寄せているのは石破茂元幹事長だ。田中派でシステマチックな選挙支援を学んだ経験がありこれを自民党内部に広めようとした。石破氏はこのシステムを「総合病院」という言い方で表現している。

田中派は衆議院議員40人・参議院議員41人が参加して旗揚げされた。当時の佐藤派は102人の大所帯だったが佐藤栄作氏が福田赳夫氏を後継指名したことに不満を募らせた人たちが独立して田中派が生まれている。最初から81名の大派閥だった。

田中派の特徴は陳情から選挙までの総合対策をオートメーション化したことにあった。石破茂が当時の選挙準備の様子を総合病院に例えて記述している。オートメーションだが全て手作業で管理していたそうだ。

安倍総裁が誕生し幹事長に就任する。この体制で2012年に勝利し自民党は政権に復帰した。つまり石破氏が田中派の「インターン」時代に学んだ手法はかなり実用的なものであったと言える。石破茂はこの総合病院方式を自民党に持ち込もうとしたが、「派閥否定」につながるとして頓挫している。

ではなぜ石破幹事長は田中派の総合病院方式を自民党全体に広げようとしたのか。そしてそれはなぜ否定されたのか。

石破茂は田中派からは出馬できなかった。当時の選挙は派閥ごとに複数の候補者が擁立される仕組みになっていたが石破の選挙区には既に田中派の人がいたのだ。そこで紹介され中曽根派の流れを汲む渡辺派に移った。

そこで石破氏は渡辺派の不効率なやり方に戸惑う。自分の餌は自分で集めてこいというのが渡辺派のやり方だったのだという。渡辺派ではこれを地鶏軍団と言っている。

2012年に安倍政権の幹事長になり「自民党の田中派化」を計画した。ところがこの計画は「システム化」ではなく「派閥否定」と受け止められたようだ。

石破氏はこの文章の中で選挙システムについては書いているがその後のことには触れていない。それが「分配スキームの維持」である。議員は選挙に当選するとその後で選挙区を維持しなければならなくなる。選挙区を維持するためには支援者に利益を分配し続ける必要がある。石破氏はおそらく選挙と利益分配のどちらもシステム的に管理しようとしたのだろう。

石破氏の着想を実現しようとした人がいる。それが小沢一郎氏である。やはり田中派の流れを汲んでいる。小沢一郎氏は民主党政権で陳情を一本化しようとした。当時は「利権政治を変える」「族議員的癒着がなくなるなる」と期待されたが、おそらく本当の狙いは権力を小沢氏に集中させることだった。

小沢氏への権力の集中は「鳩山・小沢の権力の二重化」などと言われた。大きくなった派閥が政治と金の問題を抱えるのは珍しくない。小沢一郎氏も例外ではなかった。小沢幹事長に「政治と金」の問題が持ち上がると鳩山総理は「自分も退くから幹事長も引いてほしい」と懇願し自ら身をひいた。結果生まれたのが菅・枝野体制だ。枝野幹事長への交代の時に「透明化を確保する」として路線変更がなされた。

小沢氏の一連の騒動は民主党とその後継政党に「派閥」に関するトラウマを残した。このため後継政党は政党内派閥がなくグループが独立して政党を立ち上げる傾向がある。まとまりにかけ小選挙区制のもとでは勝てなくなった。

田中派も同じルートを辿っている。権力を維持するためにロッキード事件が起き田中角栄総理大臣は退陣を余儀なくされた。ところが選挙システムがあまりにもうまくできていたため1984年には118人まで膨れ上がった。

実は中曽根派も同じように政治と金の問題で潰れている。中曽根派の源流は河野一郎の派閥だそうだが、まず田中派につきその後は福田派に協力することで党内に敵を作らなかった。田中派と福田派の協力が激化すると間を取る形で仲裁役として総理大臣に就任する。ところがリクルート事件で政治と金の問題を抱えた。藤波孝生官房長官は「請託」で賄賂性が認定され有罪判決を受けた。中曽根氏も自民党にいることができなくなり数年の間ではあるが自民党を離れていた時代がある。中曽根派は弱体化しのちに志帥会(今の二階派)に合流している。

安倍派もある意味成功し過ぎた派閥だった。会長の安倍晋三氏は安倍派の後ろ盾で長期政権を維持したが自派閥に大勢の依存する議員を抱えた。さらに外には「排除された」と感じる敵も大勢生まれた。彼らは当然成功している人たちを嫉妬するようになる。

安倍氏が派閥に戻った時にはすでにキックバックのような習慣が根付いていた。西村事務総長と安倍総理はこれをやめさせようとしたようだが銃撃事件が起こり体制が変わると集団指導体制となりキックバックの習慣が復活したようだ。さらにこれが検察ざたになるとこれまで清和会に恨みを持っていた人たちに徹底的に包囲されることになった。

自民党、立憲民主党、国民民主党、前原新党共にこの壁が崩せていない。総理大臣を出すためには支援してくれる議員を大勢集める必要があるが、集めると「それを維持する必要」が出てくる。日本の政党システムは「内側の欲」と「外側の嫉妬」の適切な管理ができる組織を作ることができていないということもできるし、これがあるからこそかろうじて一人勝ちする権力者の出現が防がれていると考えることもできる。

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