少し前に「106万円の壁」について書いた。インフレが進むと給与は自動的に上がる。このときに税金の計算や年金の計算基準をインフレさせてゆかないと結果的に負担増になる。これは累進課税の徴税テーブルに関しても言える。ただこれを書いたときにはあまり理解してもらえなかった。
ただ、このコンセプトは政治学・経済学ではよく知られているようだ。ブラケットクリープという名前が付いていて最近盛んに議論されるようになった。この用語で検索するといくつかの記事が見つかる。
例えばアメリカ合衆国ではインフレ調整として「the annual inflation adjustment of tax brackets」が行われる。ブラケットのインフレ年次調整だ。CBSがこれを扱っているが特にブラケットについて説明はない。ある程度一般化された用語であることがわかる。さらにこの調整はインフレ対策の減税にも使われる。
岸田総理が減税を言い出した時、財務省と税調インナーは「定率ではなく定額」と即座に宣言した。彼らはどうしても「率」の議論はやりたくなかったのだろう。いずれにせよ初期に「額」議論に移行したことで彼らは「率隠し」に成功した。あとはマスコミと国民が「消費税を下げる下げない」問題で疲弊するのを待つだけである。意外と我々の議論は分かりやすく操作されているのである。
長い間日本の経済と物価は成長していなかった。このため、所得税の課税最低限やブラケット(各税率が適用される年間所得)は名目で固定されている。物価と賃金が同率で上昇した場合に所得税額はインフレ以上のスピードで増える。この現象をブラケット・クリープと呼ぶ。
大和総研が「そろそろ所得税のインフレ調整検討を」という記事を出している。実は日本でも1995年まで行われてきたという。
2023年10月にも関東学院大学経済学部教授という人がこんな記事を書いている。インフレで「かえって貧しくなる」のは当然のことななのだが、人々は消費税議論に忙しくそれに気がつかない。
つまり、実質的に見て、私たちは一切豊かにはなっていないどころか、かえって貧しくなっているにもかかわらず、名目所得額が見かけ上増えたというだけで課税対象所得額が増えたと判断され、税率が上がり、税負担が増し、手取り額が減ってしまうのです。これをブラケットクリープと呼びます。
前回のエントリーでは「日本の経済は実はインフレに入っている」と分析した。だが、デフレ=悪という認識があり、なおかつ「自分達の生活は良くなっていない」という実感がある。このため、インフレなど起きているはずはないという感想を持つ人が多いのだろう。下手をすると嘘つき扱いされかねない。
さらに政府もデフレ脱却宣言をやっていない。デフレ脱却宣言をやると成長期にある制度を復活させなければならない。「寝た子を起こしてしまう」可能性があるということなのだろう。1995年まではインフレ調整をやっていたのだから、それを復活させるべきという議論は当然出てくる。
実に意外なことだが既にブラケットクリープに対応せよといっている政党がある。それが国民民主党だ。玉木雄一郎氏のXの投稿にブラケットクリープ対策が出ている。
このブラケットクリープというコンセプトがわかると財務省が隠したいのが何かがわかる。
インフレは政府にとっては間違いなく「いいこと」だ。ブラケットを維持すればその分税収が自動的に増えるからである。厚生労働省も壁を動かさないことで多くの人を厚生年金に誘導することができるだろう。だから、彼らも率の議論はやりたくない。そこで早い段階で「定率ではなく定額でゆきます」と宣言した。記者クラブメディアは投げられた骨に向かって一斉にそちらに走り出し「2万円だ4万円だ」とか「一人当たりだいや世帯当たりだ」という世論が形成されていった。
有権者は既にこの議論に疲れている。議論は消費税というわかりやすい議論に収束し岸田総理を叩いている。消費税は唯一「率」が支払手によって意識される税でありその分議論の対象になりやすい。
有権者が岸田総理を叩いている間、財務省と厚生労働省は安全な立場からインフレ時に有利なブラケットを維持することができる。つまり彼らはこの不毛で徒労の多い議論の隠れた勝者といえる。アクターたちがどの程度自分の役割に気がついているかは疑問だが岸田総理の定額減税発言は有権者とマスコミを疲れさせる「デコイ」のような役割を果たしているにすぎない。
財務省が隠れて有権者を騙しているわけではない。割と進んで騙されているところがある。自分達でアジェンダを設定することができないマスメディアしか持たない国の国民は不幸だ。
ちなみにアメリカ合衆国では毎年年次調整が行われているそうだ。CBSが次の年のブラケットで恩恵を受ける可能性がある人がいるというような記事を書いている。ブラケットは「インフレ年次調整」とだけ説明され「ブラケット」について説明はない。アメリカ合衆国には「天引き」という概念がなく全ての納税者が自分で申告する仕組みになっている。このため、税金についての意識が徹底しているのであろう。
CBSは次のように書いている。インフレで苦しむ人たちのために事実上の減税措置としても活用されるそうだ。
Setting higher thresholds can help avoid so-called “bracket creep,” or when workers are pushed into higher tax brackets due to the impact of cost-of-living adjustments to offset inflation, without a change in their standard of living. It can also help taxpayers shave some of what they owe to the IRS if more of their taxable income falls into a lower bracket as a result of the higher thresholds.
日本で所得税ブラケットの議論が始まってしまうと、おそらく「いやもっと下げられるはずだ」という消費税に似た議論が展開されるはずだ。既に「岸田総理はなぜ消費税を下げない」「消費税を下げれば国民生活はもっと豊かになるはずだ」というような議論がある。所得税と比べ消費税は「税率」が意識されやすい性質がある。財務省は「税率」が意識されることによって国民議論が所得税の仕組み全体に及ぶことを恐れているのかもしれない。
そもそも日本には「税金は天引きされるものだ」という考え方がある。納税者が税金について意識し出すと支出に対しても厳しい目が向くことになる。政権は「寝た子を起こす」のを避けたい。
インフレに対応して制度的にブラケットを改定するアメリカ合衆国と税率そのものが議論になる日本。この制度においては日本はかなり要領の悪い議論をしているといえそうだ。消費税の税率議論が起きるたびに政権の死活問題になってしまうのはそのほかの税の議論から国民を遠ざけているせいでもあると気付かされる。