高校生のデモ参加を届出制にするのは憲法違反という記事を読んだ。これに対して、なんでもかんでも「憲法がー」というのはいかがなものかというTwitterの呟きを見つけた。
確かに最近「憲法がー」と叫ぶ人は増えた。自衛隊のように憲法上明らかにグレーな組織(念のためにいうと自衛隊をなくせといっているわけではないですよ)を弁護するのに「生存権」を持ち出したり、組体操を禁止するのに憲法を持ち出す人もいる。だから、こういう感想を持つ人が出てくるのは無理からぬことだろう。
だが、高校生のデモを届出制にするのは憲法違反の疑いが高い。許可制にした時点で確実にアウトだろう。
では、それはなぜなのだろうか。
民主主義社会では、国民が主権者として政治結果に責任を持つことになっている。安倍政権がいかにアホみたいな政権でも選んだ国民の責任だ。だから、意思決定のプロセスは最大限守られなければならないという建前になっていて、それを「集会・結社の自由」とか「表現の自由」の根拠になっている。デモも(それがどれだけ馬鹿馬鹿しく見えたとしても)民主的プロセスの一部なので憲法で守られているのだ。
高校生のデモを届け出制にすれば萎縮する人が出てくるだろうし、仮に「行くな」とほのめかした時点で民主主義のプロセスに圧力を加えたことになってしまう。
仮に「届出せずにデモに参加した」という罪で退学処分が出たら「集会の自由を侵した」ことになり、憲法違反に問われるだろう。では、多分、裁判をすると学校側が負けるはずだ。同じように共産党の主催するデモに生徒が参加することをとめられなかった校長が左遷されたりすると、これも「不利益を蒙った」ことになる。
知ったからにはいろいろな意見を言いたくなる。そもそも「行くな」といえないのに届出制にするのはなぜなのだろうかという疑問も湧く。
民主主義の根幹である表現と集会の自由についての理解が進まないのはなぜかというのは興味深い問題だ。多分、戦前の日本が臣民型の憲法を持っており、外国(アメリカなどの連合国)の圧力で民主化が進んだからだろう。文部科学省が憲法について見識がないとも思われないので、政治家からの圧力があったのかもしれない。
高校生にまともな政治判断ができるのかという疑念もあるだろうが、であれば主権を与えてはいけないということになる。識者の中にも「女性が選挙権を持つようになってから感情的になりポピュリズムが進んだ」などという人もいる。
さて、この「言論の自由」だが、不利益があるのも確かだ。例えば大学紛争の時代には「政治的自由」のせいで大学が占拠されて高等教育を受けられない人が多かった。首都圏では大学紛争が高校に飛び火したという話も聞く。学生の政治活動に警戒心があるのは、このときの記憶があるからなのかもしれない。
また、ヘイトスピーチも「表現と集会の自由だ」と言われれば、まさにその通りとしか言えなくなる。日本はヘイトスピーチへの法規制が進んでいないという批判があるのだが、これも憲法の言論の自由に抵触する可能性がある。「朝鮮人は出て行け」という主張は是非はともかく政治的な主張ではあるからだ。例えば、ドイツのようにナチスを思わせる発言やボディランゲージを全面的に禁止している国もある。これも表現の自由と言えなくもないが、ドイツでナチス風に手を上げると罪に問われることがあるようだ。
国際的には表現の自由や集会・政治結社の自由を拘束できるのは他者の人権だけだと考えられているようである。
なお、憲法に表現の自由があるからといってそれが確実に守られているという訳ではない。警察はデモの参加者を監視している。顔写真の照合システムがあるのだそうだ。政党の中にも監視対象がある。共産党は暴力による革命という方針を捨てていないという理由で公安からの監視対象になっているということである。
集会の自由や表現の自由は民主主義プロセスを守る上では重要な権利だ。しかしこれを「権利」というと話がややこしくなる。主権者としての結果責任を問われる。つまり、義務と権利は一体化しているのだ。民主主義のプロセスを踏んで決まったことだから「私には関係ないから法律守りません」というわけには行かないのである。
日本人の中には「政治なんか面倒だから、適当に決めてくれ」と投票に行かない人も多い。表現の自由は憲法で保障されているが、実際に家庭や学校で政治的意見を表明すればかなりの確率で空気が冷え込むだろう。政治的意見を表明しなくても、これでは結果責任だけを問われることになり損である。
あとで不利益だけを蒙らないように、普段から穏やかに政治的意見を表明できるようにしておいた方がよいのではないだろうか。