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宮廷道化師としてのマスコミ

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Twitterを見ていたら、面白い詩を発見した。Jesterとは宮廷道化師のこと。この詩はRaspberryというボードコンピュータがコーヒーより安いということを唱っている。Jester、Coder、Cheaperと韻を踏んでいるようだ。


WikipediaでJesterの項目を読んでみた。もともとイギリスには宮廷道化師を抱える制度があった。宮廷道化師は愚者だからこそ自由な言動を許されていた。その理由は書かれていないが、脅威がないと見なされていたからだろう。また、君主は周囲から持ち上げられて判断を間違える可能性もあったのだろう。正しい判断を行う為には、適切な批評が必要なのだ。
イギリスでは革命があり道化師は姿を消した。その代わりに演劇が発達することになる。それがコメディだ。フランスやイタリアではコメディア・デラルテとして定型化された。ストックキャラクターという定型化されたキャラクターが生まれ、現代のコメディに受け継がれることになった。
道化は政治パンフレットや貿易情報誌などと並ぶ西洋マスコミの源流の一つになっている。権力を笑えることは健全さの一つの目安になっているのだ。また、権力の側も庶民層に何が起こっているかが分かるので、軌道修正がしやすくなる。権力の側も自分たちの権威が揺るがないからこそ、安心して批評を見ることができるのだ。
健全な民主主義社会では、普段からの意思決定のプロセスがそのまま国の意思決定にまで持ち込まれることが前提になっている。ところが日本では上からの民主主義改革が進んだ為に、一般大衆にまで民主主義プロセスが行き渡らなかった。
庶民が政治について口を挟む事はタブーになっている。このタブーは重く、同時に意識されない。試しに家族が団欒しているところや友達の間でTwitterでいつもささやいている政治的意見を持ち出してみるとよい。立ちどころに空気が冷えるはずだ。政治的意見の表明はTVでもタブーになっている。バラエティタレント(お笑いとかコメディアンとか呼ばれる)人たちも決して政治的な話題を口にしない。たぶん、政治的意見を言えばたちどころにCMを降ろされ番組に呼ばれなくなるだろう。
安倍首相が言論の自由について持論を展開できないのは、日本に民主主義の伝統がないためだ。だが、言論の自由は一部の政治家が考えるような「わがままな庶民の戯れ」ではない。議論のプロセスに国民を参加させることで、決定されてた意志へ従わせるインセンティブを与えているのだ。日本は偽装民主主義国家であり、大きな革命や隣国からの攻撃を経験しなかったために、統治側に「庶民を抱き込む」伝統が生まれなかったのかもしれない。
いずれにせよ、民主主義の伝統がない日本では、政権の腐敗やちょっとした間違いを笑いのめす伝統がなく、政権側もそれを許容する度量がなかった。かつて宮廷道化師の役割を担っていたのは「政権についた政党にはとにかく反対する」と表明していた久米宏だが、現在では政権批判をするコメンテータたちは「宮廷道化師に放逐された」と思っているらしい自民党政権から目の敵にされている。

結果として政権批判は地下化している。Twitterでは政権を罵倒するツイートが飛び交い、建設的な議論は見向きもされなくなった。また、電波停止は「憲法違反」なのではないかという議論が出るほど極端な状況が生まれている。
権力を笑える時代が健全とすると、現在の政治状況は完全に不健全な状況だ。自浄作用が働かないということだから、政権が一度道を踏み外すと、その先には革命か自壊かの二択になってしまう。
国民は議論のプロセスに参加していないので、いざとなればその権威を捨て去る事ができるし「私達は聞いていなかった」ということができる。ジェイムズ・フレイザーの『金枝篇』を引くまでもなく、言論を圧殺する事は「王として屠られる」危険を冒すことになるということを、知っておいた方がよいと思うのだが、現在の政治家たちはこうした基礎的な教養を持ち合わせていないのではないだろうか。


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