「立憲主義」や「民主主義」に疑いを抱く人に教師のような態度で接する人たちがいる。民主主義は正しい態度であり、ちゃんと教えてあげれば目を覚ますだろうという態度だ。単に知らないから民主主義に対して疑念を抱いていると考えているようだ。
ところが、実際には「ちゃんと考えた結果」民主主義を否定しようという人が出始めている。
相反する姿勢のようにも思えるのだが、両者には共通点がある。どちらも、自分たちの知的優越性を信じていて、他人は無知だと考えているのである。
民主主義懐疑派の中で最も多い意見は「納税もしていないのに選挙権があるのはおかしい」という素朴な疑問だ。非納税者の中には、若年層、主婦、高齢者、働けない障害者などが含まれるのだろう。しかし、こういう意見を言う人に突き詰めた話を聞くと、いろいろと「例外」が出てくる。例えば高齢者は「長年納税してきたのだから例外だ」というような具合である。結局のところ「誰か民主主義を超越したもの」が調停してルールを作るべきだという姿勢に行き着く。法律の上に知者を置いているのだ。
ただしこれを「無知蒙昧な態度」とは言い切れない。経済学者の池田信夫さんはブログで普通選挙への懸念を表明している。内容はかなりひどい。女性のせいでヒトラーやポピュリズムが台頭したということを仄めかした(だが決して断言はしない)上で、高齢者が既得権を持っているので改革が進まないと言っている。だが、高齢者から票を奪えとも言えないので「まだ生まれていない人に選挙権がないのはいかがなものか」という形で結んでいる。
池田氏は、普通選挙は啓蒙思想という建前によって作られた制度であって、現実の民衆はそれほど賢くないと考えているようだ。裏を返せば自分は平均的な民衆よりも合理的で賢いと考えているのだろう。東京大学を出てNHKで働いた事もあるのだから、確かに「無知蒙昧な民衆」よりも合理的で知識もあり賢いのだろう。この点に関しては疑いようがない。
池田氏がどのような政治的意見を持っているのかは分からないが、こうした思想を突き詰めて行くと、無知を超越した合理的な哲人が民衆を始動すべきだという結論に至るのではないかと思う。哲人政治と呼ばれる独裁を希求しているのである。この文脈での民主主義には「衆愚政治」という批判的な含みがある。
こうした態度に合理的な批判を加えることはできないが、歴史的な経緯から教訓を得る事は可能だ。日本では議会政治が行き詰った結果、軍隊の暴走を招き(勝手に暴走したわけではなく国民が支持した)第二次世界大戦に突入した。ドイツでも同じようなことが起こった。人々は民主主義を諦めてヒトラーによる独裁を望んだのだ。イタリアも強い指導者を望み敗戦した。スペインは戦争に負けなかったのでフランコ政権は戦後も独裁政権を温存した。
背後には経済的な不調がある。「衆愚政治」は景気循環的な経済不況には対応できるが、構造的な経済不調に対応できない。そのために「衆愚を越えた哲人」が状況を突破してくれることを望むのだ。
しかし、共産主義を含めて「哲人」を自任する人が持続可能な経済的成功を収めた例はあまり多くない。近年の例外はリー・クアンユーくらいではないかと思う。大抵は敵の出現に怯えて政敵の粛清を行うようになるか、敵をでっち上げて大衆の支持を得た挙げ句、国民総玉砕へと進む。
歴史的な結論は単純だ。哲人などそうそう見つからないのだ。面倒でも他人を説得して解決策を模索するしかない。理由は分からない。それぞれの事情は異なっているだろう。
現代の日本では、長年続く構造的な経済不調を背景にした民主主義への不信感があるのだろう。こうした疑いを抱く人は一般人ばかりではない。彼らは衆愚を超越した何かが解決策を提示してくれることを望むのだが、大抵の場合それは破滅への道だ。
こうした民主主義への懐疑心を教師のように教え諭すことはできないだろう。個人の知恵というものには限界があるということを認めなければ、先へは進めないのだろう。