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日本人の政治的態度をどのように区分すべきなのか

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政治を分析するに当たってよく「右翼」「左翼」という東西冷戦時の構造を使った区分が用いられる。ところが、この分類を用いると政治がよく見えなくなってしまうのではないか。
自民党は一般的に「右側」だと認識される。最近の安倍首相の態度から「右傾化している」と言われることも多い。時には復古的な憲法案を振りかざし、民族主義的な「美しい日本のこころ」を唱ったりするからだ。
ところが、実態を見るとこれとは違った見方ができる。自民党の経済政策は企業に国家の関与を認める社会主義的なものが多い。また、年金政策も国家による生涯の収入保証を目指したものだ。これらは社会主義的な政策だと考えられる。ここから、自民党は社会主義政党だという見方ができる。
日本には様々な「政治的対立」があるが、中には政策とは全く関係のないものが含まれている。戦後に蓄えられた資本蓄積があり、金融機関を介して国債として政府に貸し付けられている。国債に税を加えたものをどのように分配するかについてもめ事が起こる。企業や各種団体中心に分配したいのが自民党、国民に直接分配したいのがいまはなき社会党、一部を「おおさか」(おおさか維新の会の定義ではおおさかとは普通名詞でやる気のある地方とのことである)に分配しろと言っているのが、おおさか維新の会だ。
日本は左傾化しているので旧来の左翼勢力は行き場を失ってしまった。この結果、左側政党はのきなみ宗教化した。
共産党は「マルクス・エンゲルス」という外来の神を信じている宗教政党だ。かつての大企業の労働者を中心に支持を集めている。また公明党は、日蓮仏教が大都市に出てきた農村出身者を取り込んだ政党である。旧来の社会主義政党は「穢れを避ける」ことを信仰の中心に置いた。彼らは戦争や原子力発電などを穢れだと考えている。これを追難することが活動の中心になっている。この宗教には神がいない。そこで、第二次世界大戦後アメリカから入ってきた「民主主義」を本尊に据えることにした。本来は資本主義と対峙するはずの社会主義者がアメリカ由来の憲法を大切にしているのはこのためだ。この一連の宗教はコミュニティの解体と再構築に関係がありそうだ。
右派勢力を支持している宗教勢力もいる。こちらは国家神道の流れを組んでいる。国家神道は明治維新後新政府が日本各地の神道をもとに再構成した新興宗教だ。自民党の旧来の支持者がいなくなり置き換わりつつあるのだと考えられる。国家神道のご神体は国体と呼ばれる。もともとは自然環境などを神格化したものだが、国家権威の神格化のために用いられた概念だ。日本の神格化は中空構造を持っている。このために神官が国体の権威を利用できるように作られている。
右派というと天皇崇拝だという印象があるが、今上天皇は戦争を経験した「護憲派」だ。そこで右翼勢力の中には「宮内庁は天皇の発言をコントロールすべきだ」という識者もいる。護憲派は左翼なので、天皇が左翼であっては困るのである。
いずれにせよ、日本の政治には2つの大きな流れがある。それは社会主義と宗教諸派である。社会主義は分配に関する議論であり、宗教は所属に関する議論だ。
もちろん、日本にも政治的対立(選択肢)はある。それは自由主義か社会主義かという選択だ。ただし、自由主義者にはほとんど居場所がない。
第一の政策は統治機構に関するものだ。自民党とおおさか維新の会は改憲を目指して共闘することになっている。だが、実際には、地方や個人に権限委譲(エンパワーメント)することにより再活性化を目指すか、国家権力を強めて国家社会主義体制の再構築を目指すという真逆の方向の議論が一緒くたに行われているのだ。この議論が同時に起こるのは本来のエンパワーメントという自由主義的なイデオロギーが忘れられ大阪に中央の予算を付け替えるという、中央集権の理論に置き換わっているからだと考えられる。
経済対策については三つの派閥がある。日本人が持っている活力を信じてグローバル経済に門戸を開き雇用改革をするという自由主義的な選択肢(小さな政府)が一つ、国家の関与を強めて分配を強制するという政策(大きな政府)が二つである。大きな政府派は、企業を国家の一機関として捉え「トリクルダウン」を目指す政策と、税金や年金による直接給付を目指す二派に別れる。ここでも、大きな政府派が「左右両極だ」と捉えられており、小さな政府派は事実上有権者から無視されている。
さて、この図式には大きな視点が欠けている。それは国防や外交に関するものだ。しかし、よく考えてみると何かがおかしい。議論が全く噛み合ないのだ。
アメリカはこの数十年間血みどろの戦いを繰り広げてきた。国民皆保険制度すらないのに、世界の警察官として膨大な軍事費を支出している。これに対して「応分の負担」を求めたのが、2015年の安保法制議論だ。ところが、日本の政治家たちはこうした現実をよく分かっていなかったようだ。彼らの動機は「大きなプラモデル」を買いたいとか「三国志議論」に没頭したいというオタク趣味的なものだと考えられる。これを「強い国」と呼んでいるが、ビックボーイ症候群とでも呼べる態度だ。経済議論には無頓着で同盟や軍事など多いなことを語りたがる政治家は多い。経済や福祉問題など「ちまちました」ものは専門家が考えることであって、政治家は「大きな」問題を語るべきだと思っているのだ。
一方で対峙する左派も「戦争は穢れ」と考えているだけで、現実的な対応策を出さなかった。憲法第九条が穢れから逃れるための護符になっている。左派の主張は「戦争というと戦争が来る」という言霊信仰に近い。
国防に関して、日本には現実的な政策議論がない。分配に関する議論でも所属に関する議論でもないからなのかもしれない。
背景にはアメリカの軍事力を背景とした現行の政策がうまく行っていることがあるのだろう。裏返せば、有事の際の備えがないことを意味している。最近では、アメリカでは尖閣諸島に介入すべきではないという議論もあるそうだ。中国との全面対決になれば、本土がサイバー攻撃を受けて金融インフラなどがダウンする可能性があるのだということである。この種の議論は日本では無視されるだろう。原子力発電所に事故があれば対処できないので事故がないことにされてしまったのと同じようなものだ。アメリカは決して負けないし、負けてはならないのだ。突き詰めればこれも宗教の一つ(アメリカ教)と呼んでよいかもしれない。
まとめると日本には3つの政治的態度があることが分かる。それは宗教・社会主義・自由主義だ。