Twitterでもネットニュースでもryuchellさんの自殺騒動が大きな話題になっていた。そもそも性自認というアイデンティティが揺れているにもかかわらずSNSのバッシックにさらされていたことがわかっているが、これはかなり過酷な体験だったであろう。
一体どうすればryuchellさんは社会に助けてもらうことができたのかと考えたのだが答えは見つからなかった。逆に、アイデンティティに悩む人は自分なりの防衛ラインを作るべきだと感じた。社会には自分らしさを追い求める人たちに対する潜在的な悪意が蔓延しているからだ。
ryuchellさんが標的になった理由はすぐに見つかった。「自我」に目覚め自分らしさを探し始めたことで反発されたのではないかと思う。
ryuchellさんは男性である。もともとは「いじられる」側のキャラとしてテレビなどで活躍していたという印象がある。男性として女性と結婚して子供を作ったが自分のことを「男性が好きな女性」と考えている。結局「自分の中にある女性らしさ」を選びパートナーとは離婚した。子供との関係は円満だったとされる。ryuchellさんが一貫して訴えていたのは「自分らしさの追求」だった。
ryuchellさんを応援する人もいたがネットでは批判にさらされていた。この人たちがなぜryuchellさんを標的にしていたのかはわからない。そこでTwitterで「死体蹴り」という嫌な言葉で語られる呟きを観察してみた。もちろん過激なアカウントはあったが、ほとんどが普通の人のアカウントであるように感じられた。却ってこれが恐ろしかった。さらに意外と「同性愛嫌悪」みたいなコメントが少なかった。「ホルモンで不安定になっていたのでは?」というよう憶測はあるが、ryuchellさんに関して言えばLGBTの問題とは捉えられていないと思う。ただ統計を取って分類したわけではないのでこれに関しては改めて「死体蹴り」のTweetを見てぜひご自身で確かめていただきたい。
- ryuchellさんが特別扱いされていることに嫉妬しているような人たちがいる。自分も自己承認を得たいが報われないという気持ちがあるのだろうかと考えた。
- 「育児はそんなに甘いものではない」とするコメントもあった。これもあるいは普通に育児をしている人なのかもしれないと感じた。
- ryuchellさんの名前を間違えた政治家を執拗に攻撃する人たちもいた。こうなるともう石を投げるために間違いを探しているように思える。
確かに一部に過激なアカウントもあったが多くは「普通の人たち」なのだろう。自己承認を得たいが得られないという人たちが少数派の逸脱者をいたぶっている。そんな感じに見えた。
実は多数派と言われる人たちも自己承認を求めている。だが彼らは普通であるがためにその機会を与えられない。さらに自分らしさが何かを言語化することもできない。だが周囲も「自分らしさなんかよくわからない」のであれば今のままでいられる。彼らにとって最も脅威なのはある日誰かが目覚めて自分らしさを追求し始めることだ。比較して「自分らしさが探せない私」が惨めに見える。
タレントの中にはかわいいがあまり自己主張をせずに周りからいじられるというタイプの人たちがいる。ryuchellさんが狙われたのはここから脱却して「勇気を持って自分らしさを探し始めた」からなのかもしれない。これが裏切りになってしまうのである。
例えばニュース番組で戦争の悲惨さについて自分なりの言葉で語っている。テレビタレントとして「かわいいもの」扱いだったのに文化人に格上げされる。これも嫉妬の原因になったのかもしれない。
一般の人たちが抱える感情は「悪意」ではなく「羨望」だ。そしてその羨望の中身は「私は自分らしさが探せないのにあの人はそれに向かって歩み始めた」というものである。彼らは普段は自分より劣っている人たちを探して安心している。
- 自分よりちょっとかわいくない友達がいきなりオシャレに目覚めた
- 自分よりちょっと勉強ができない子がいきなりテストでいい点を取り始めた
こういう「ちょっとした」ことが彼らにとっては脅威なのだ。
では社会はこれに応えていけばいいのか。本来ならば誰もが自分らしさを追求できる社会を作ったほうがいい。
別の課題を読んでかなり絶望的な気分になった。よくわからないから判断しない。判断できないから今のままでいいのではないかという戸惑いが感じられる。
経済産業省が「性的自認が女性」である男性の女子トイレ使用を制限してはいけないという判決を出した。「このトイレは公共のものではない」ために女性のふりをして女子トイレに入ってくる不特定の男性を排除できることが理由として挙げられている。
当然これは裏返すと「こうした配慮ができない公共のトイレでは性的自認が女性である男性」を制限していいということになりかねない。そこで最高裁判所はわざわざ社会で話し合えと釘を刺している。
では問いを投げられた社会はこれにどう対応しているのか。読売新聞は「最高裁判決に触発されて混乱が広がる」ことを恐れている。つまり対話を拒否し要請に応えないように社会に呼びかけている。新聞が「考えないように」と呼びかけているのはかなり異常な状態だが文章が上手なためにこれが「主張」として成立しているように見えてしまう。
判決に触発され、性自認に応じたトイレ使用を広く認めるべきだという極端な議論が起きれば、社会に混乱が生じる恐れもある。
産経新聞も経済産業省個別のケースであって他の職場に広げてはならないと言っている。これも同じような態度だ。
読売新聞も産経新聞も「これまで男女別のトイレで問題はなかったのになぜ今さら変えなければならないのか」と変化に怯えていることがわかる。マスコミを通じた世論形成は難しそうである。彼らはこのような変化に対応できないのだ。
さらにNHKも深刻な問題に触れている。裁判所は形の問題(トイレ)は取り上げることができても気持ちの問題は取り上げられない。
最高裁判所はこの領域に踏み込まなかった。つまり原告の心理的な問題への救済はない。いかにも「非情だ」という気がする。
ただ、果たして司法が「人々の気持ちの問題にまで踏み込むべきなのか?」ということは考えてもいいかもしれない。つまり我々の社会がどう振る舞うべきかを裁判所が決めて指図していいのかという問題である。本来これはコミュニティで我々一人一人が考えるべき問題なのかもしれないのだが、日本にはそのようなコミュニティがない。
社会はなんらかの揺らぎを抱えている人を助けてくれない。だから、自分たちでなんとかすべきだ
などと言えばおそらく多くの人が反発を覚えるだろう。だが実際の社会は変化に戸惑うばかりで解決の糸口は得られそうにない。
そればかりか今の日本には自己肯定感が欠落した人たちが大勢いる。彼らは常に自分を肯定し続けるための「犠牲者」を探している。多数派の自己肯定感に関する飢えはかなりのものようだ。常に「普通の私たちを優遇しろ」と要求し続けている。
今の日本で「満たされない多数派」の犠牲にならずに自分らしさを打ち出すためにはそれなりの戦略が必要なのであろうと感じた。
末筆ではあるがご冥福をお祈りしたい。あえて立ち上がって自分らしさを追求したことに勇気づけられた人はたくさんいるだろう。その勇気は無駄にならないし無駄にしてはいけない。
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