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普通でない国の普通の若者が叫ぶ

SEALDsの代表者だという学生がテレビのニュース番組に出て、淡々と自分の意見を述べた。安倍首相は日本を「軍隊を持つ普通の国」にしたいと考えている。ところが、軍隊のない国で育った「普通」の学生の感覚から見るとそれはおかしなことなのだ。
集団的自衛権を巡る不毛な争いは意外な問題を顕在化したと思う。代表者は「我々は不偏不党だ」と言った。どんな党でも受け入れますよという意味らしいが、すなわち全ての党が「偏っている」という認識の裏返しだ。
これは、かつての自民党や公明党が「中道」を唱っていたのと似ている。今でも自民党支持者は(端から見れば右翼的でも)自分は中道だと考えているのではないかと思う。また、かつて多くの日本人は自分が中流に属すると考えていた。
どうやら、日本人は「偏り」を嫌うらしい。普通でいたいのだ。
これまでの「無党派層」というくくりへの認識を変えなければならない、と思った。無党派とは政治に興味がなく、自分のポジションと合う政党を見いだせない人という暗黙の認識がある。ところが実際の無党派は「自分たちがポジションを持つべきだ」とは考えていないのかもしれない。代わりに「普通で正統な」何かを求めているのだ。
SEALDsを応援する人たちの中には非正規労働者が含まれるだろう。しかし、彼らが党派を主張することは、普通ではなくむしろ下流だということを認めてしまうことになる。「弱者が訴えるのは痛々しい」という人もいる。だから、彼らは党派を形成しないだろう。
ポジションそのものが否定されているわけだから、二大政党制も存在し得ない。あるとすれば「正統な政党」が一つと、それを否認する政党だろう。それはアクセルとブレーキという「普通」の二つの側面だ。二つはある意味では一体なのだ。
この「普通」に関する認識は田崎史郎さんのいらだちによく表れていた。SEALDsの代表者が偏った意見を持っていれば、声を上げることはなかっただろう。むしろ「政治を良く知っている自分」が善導してやろうとすら考えたかもしれない。しかし、この「普通の学生」が整然と自分の意見を言うのを聞いて、ついに声を荒らげた。内心、かなり焦っていたのではないかと思う。なんとかしないと、自分が普通と乖離した「偏った」存在であることがバレてしまうからだ。テレビは彼の焦りを遠慮なしにさらけ出した。と、同時に普通の持つ呪縛のような根深さが浮き彫りになった。
SEALDsの代表者はまた「現在の野党には期待していない」旨の事の発言をしていた。一昔前の有権者はある種の落胆を持って「頼れる政党はないものか」と思っていた。ところが、もはやそうした期待すらなくなってしまったらしい。政党はすべからず偏っており、劣っているという認識なのだろう。
民主党と維新の党の一部は安保法案に対する不信が高まっているのに、自分たちへの支持が上がらない事にいらだちを見せている。そこで法案成立が目の前だというのに、自分たちの勢力争いのための議論を始めてしまった。これでは法案を反対していたのが自分たちのプレゼンス誇示のためであることがあまりにもあからさまだ。「うらごころ」は嫌われるが、今回の動きは注目すらされなかった。
党派は権力闘争を生み先鋭化し、主導権争いは自己目的化する。これは過激な左翼闘争から学んだ教訓だった。現代の学生団体はこれに学び、強力な指導者が強い主張をすることを避けている。一方で、既存の政党は党派の支配権を得る為に、数年ごとに離合集散を繰り返し「普通の」人たちから見放されてゆく。中心を求めれば求めるほど、周縁に弾き飛ばされてしまうのだ。
今回の安保法制制定過程では、黙して語らないはずの中心が特定の意見を述べてしまったために、全体を巻き込んだ大騒ぎが起きたのだ、と考えることができる。いったんできた溝を埋められる人は誰もおらず、全ての人が自分が正しいのだと主張して止まない。全ての人が冷静さを失い、自分たちの物語を呟いている。
ここで、多様な意見を持っている人が全て普通でいることなどできないはずではないかという疑問が湧く。物事には全て中心と周辺があるはずだ。そこで日本人は中心に何も置かないことを決めた。よくある例えだが、神社の中心には何もないか、中心を覗くことができない。東京の中心には大きな森があり、そこに政治的には何も言わない精神的な指導者が住んでいる。中心について何も語らないことで、周縁を作らない工夫をしてきたものと思われる。
こうした日本人が持っている感覚は普段は隠れている。何かの隙にふと立ち現れるのみだ。表面上は西洋的な民主主義国家を装っていても、その下には全く別の層が隠れているのだ。


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