甘えと日本人

アメリカ人がうんざりする日本人の特性といえば「日本人特殊論」だ。この二つの国には共通点がある。どちらもシングルカルチャーだと言う点だ。アメリカ人は自分たちが世界から集って来た多様な民族により構成された多文化社会だと信じているのだが、英語が暗黙の共通言語になっていて、かなり強烈な個人主義を「アメリカらしさ」だとして信奉している。一方、日本人も日本語が暗黙の共通言語になっていて、日本教といってもよいような独特な社会慣習のセットを持っている。

アメリカ人が嫌いな日本人のヒトコトに「我々の文化は独特だから…」というユニーク・ジャパンという概念がある。アメリカ人は「我々の文化は世界各国の移民からよりすぐられたものだ」と信じているので、日本人は独特であなたたちには理解できないのだということを認められないわけだ。しかし日本語でしか表現できない概念もある。やはり雰囲気は伝えにくいのだ。何でも話して説明しなければならないというのはかなりしんどい。気分を察してほしいと思う。しかしアメリカ人には伝わらないことが多い。それでは伝わらないのは一体何なのだろうか。

土居健郎は英語で論文を書いていて「甘え」というコトバにぴったりくる日本語がないことに気がついた。英和辞書を見ると「子どもっぽく振る舞う」とか「依存する」と書いてあるのだが、英語ではかなりネガティブな含みのあるコトバだ。日本では必ずしもネガティブな意味では使われない。それどころか、上司が部下に対して「もうすこし甘えてくれてもいいのだよ」と言ったりする。さて、この甘えるというのはどういうことなのだろうか。

土居や斉藤が指摘するように、甘えているときに、子どもが「僕はいま甘えているのだな」ということはない。甘えは無意識に行なわれる行為だ。甘えている状態とは、気兼ねなく相手に受け入れられていると考えられることだと思われる。これに対する大人のコトバは必ずしも明確に定義されていないのだが、「気を配る」だろう。気とは何かということを考えてみると、「注意や意識を向けている」「非言語を読み取ってほ何が求められているか拝察する」という事だ。これは昨日見たアクティブリスニングに似ている。アクティブリスニングと違う点は言語が介在するかどうかだろう。斉藤孝は身体性にこだわる学者なので、この総合の関係が持っている「非言語性」に注目する。甘えが存在する関係では「話さなくても分かる」のである。

いったんこうした関係が成立すると、その内に「甘える人」と「甘えられる人」の被我がなくなる。気分の「気」は様々な意味に使われる。気を配るとは「注意を向ける」ということだから、気は自意識を表現していると言ってよい。しかし雰囲気や空気といった気はその場に漂う意識のことであり、それは必ずしも私の気とは限らない。このコトバを無理なく受け入れられるのは私たちが自分の意識と相手の意識、さらにはそこにいる人たち全体の意識を区別していないからだろう。

ともかく、許容されることが種になって、相手を許容するようになる。こうして話さなくても分かる文化ができ上がる。しかしこうした文化ができ上がるためには、時間をかけて子どもを甘えさせてやる必要がある。悪い事をしても叱らないで配慮する、危ないものがあったらよけてやるといった具合だ。この間子どもはこれを意識しない。しかし、この後「アダルトチルドレン」で取り上げようと思うのだが、甘えにも健全な甘えと不健全な甘えがある。また、家庭の中では甘えられているのに、外では甘えられないということになると、重大な問題が起こる。それが「引きこもり」だ。

甘えは非言語に依存している。話さなくても分かってくれるのは、相手が常に自分に注意を払って非言語的なシグナルを読み取ってくれているからであり、相手と自分の文化が共通していて「だいたいの場合類推が当たる」からだ。つまり、忙しすぎて相手が自分に注意を払ってくれなくなったり、共通性がなくなりお互いが類推できなくなると甘えの関係は崩壊してしまうのだ。
一つには共働きが増えて、子どもが十分に甘えられる環境がなくなってきていることが問題になっている。また終身雇用が崩壊して親の側の見通しが立たなくなると、相手に十分に注意を払うことが難しくなる。そして十分に甘えられなくなった子どもは20年も立つと親の側に立つようになる。すると甘えのない状態が再生産される。どう甘えていいか分からないのだから、どう甘えさせてよいのかが分からないのだ。

次に挙げられるのは、情報が過剰に流れてくることに関連している。青少年期には盛んに情報を吸収して、その後の精神的な姿勢を決める。

喫茶店や居酒屋の会話は形骸化した甘えの発露の場だ。全員に共通しているのは「聞き手にはなりたくない」という気分だろう。誰も聞いてくれないから勝手にしゃべっている。しかしその場では何を言っても許される。無制限に受け入れられているという点では甘えの場なのだし、それが至る所で観測されるのは我々が「甘え」を求めているからだ。日本でTwitterが否定的に捉えられるのは、誰も本当には聞いていないからだ。形骸化された甘えの場がオンラインに拡張されているからだということになる。

このように「甘えさせてくれる人」が貴重なリソースになると「甘え」の奪い合いが起こる。一人ではやって行けないわけだから、自意識を慰めるためのさまざまな手段を準備する必要がでてくるわけだ。こうした一連の行為がすべて「非言語」で行なわれる。相手にも説明できないということだが、自分にも説明できないということになる。だから、こういう状態では、我々がどうしてこうなったのかということがよく分からない。

この状態が不快なのだと考えるようになったとき、解決策は2つある。一つは社会を「甘え」がふんだんにあった時代に戻す事。本来は父親が家にいて子どもの面倒を見てもよいわけだが、たいていは母親が家にいる。また、定年(これは子どもを育ててからしばらく余裕のある十分な甘えの時間を提供する)までの見通しが明確に立っている。地域が一体になって子どもを見守る。家族は他人(近所のおじいさんやおばあさん)の干渉を受け入れるという社会だ。そしてもう一つは言語が介在しない甘えの関係を乗り越えて、言語的に分かり合う社会を作る事だろう。そのためには「私」と「あなた」が明確に分離された社会を作ることになる。普通の日本人の感覚では、これはとても「水臭い」関係だ。

甘えとは相互依存関係を構築するということだ。子ども時代と違って部下は上司に意識的に甘える。それは同時に相手の影響力を受け入れるということになる。しかしそれはやがて双方向的な依存関係に発展する。上司は時々部下を居酒屋に誘い「無礼講」と言って部下に愚痴をこぼして甘えたりする。ここで部下が甘えないと、上司も部下に甘えることができない。見方によっては部下は「甘えてやっている」のだ。
ここまで書いて来て、こうした相互依存的な関係は30代より下の日本人の間にはなくなって来ているのではないかと思った。少なくとも派遣社員と正社員というように会社に対する態度が異なる人間関係では成立しにくい。この関係はどこか疑似家族的で、両者が日本的な「甘え」を体得していることを前提にしているのだろう。

さて、ここまでは「相手と自分の問題」を分離する個人主義的な解決方法と、相互依存的な環境を作って非言語的に折り合いを付けて行こうというアプローチを見た。相互依存的な関係は、機能しているときには非常に心易い関係なのだが、ともすると不健康なものに転移しやすい。悪い相互依存「共依存」について見て行く。何が共依存を作るのだろうか。

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