維新の会の小野泰輔議員の一言が政界に波紋を広げている。この件でまず感じたのは「政治家はおそらく有権者を侮っているのだろうな」ということだった。この侮りが政界全体に危険な状態を生み出している。
小野泰輔議員の指摘それ自体は真っ当なものだったかもしれない。議員になって4時間しか経っていないないのに丸々1ヶ月文書通信交通滞在費の100万円がもらえるというのは何となくおかしい気がする。小野さんはまずは問題提起をしただけである。
だが、そのあとの政界の対応はまずかった。大した議論もしないまま「これは前々からおかしいと思っていた」という空気が生まれた。これを生み出したのが維新の本能的なメディア対応だった。維新の宣伝には大いに効果的であったが政界全体にはマイナスだった。
小野泰輔議員は東京大学を卒業した。しかし官公庁や大企業にはゆかず「コンサルファーム」のアクセンチュアに就職したという今風の経歴を持っている。その後に熊本県副知事を勤め政界に転身した。小選挙区では勝てなかったが比例で復活して議席を得た。おそらく「有権者に何が受けるのか」ということを合理的に計算していたのだろう。
維新の会の対応は見事なものだったが合理性というよりは本能と嗅覚に基づいているように思える。橋下徹さんが「公平な民間人」の立場からテレビで怒りを表明し、それに吉村大阪府知事が参戦した。おそらく計算ではなく「あ、これは庶民目線でウケるだろうな」というカンに基づいた行動だったのだろう。のちに吉村府知事は自身にも同じような経歴があったことが露見するのだが「確かにブーメランだが結果的にこれがわかったことは良かった」と言っている。下手に言い訳せず認めることで爽やかなイメージが維持できることを本能的に知っているのである。
これに慌てたのが自民党だった。東大を卒業したあとハーバード大学行政大学院を修了している茂木敏充幹事長が「これはいかにもおかしいから自民党も対応する」と追随した。これが今回「政治家は有権者を侮っているなあ」と感じた点である。おそらく有権者は細かいことはわからないがこういう表面的な問題には食いつくと感じたのだろう。
背景にはデザイン思考の欠如がある。本来制度は何らかの目的のためにデザインされているはずなのだから「目的に沿った設計になっているのか」を検証すればいい。だが日本の政治にはこのデザイン思考がない。
もともとは活動経費的な色彩のある費用だが経費精算ではなく定額前払いになっている。真面目に活動する人にとってはこれでは足りないという額でありあまり熱心に地元対応していない人には多すぎるという額である。つまりそもそもおかしな制度だった。
おそらくこれに意を唱える人が少ないということは「もらいすぎている」人が多いのかもしれないが「そんなものなのだろう」と漫然と受け取っていた人も多いのだろう。本来ならば報告制にして使わないものは返還するなどの措置を講じるべきなのだろうが空気に流される形で「とりあえず返還」という流れになっている。
この話にはさらに続きがある。立憲民主党が「あり得ません」とかみついた。当然のことながら「何を今更」というコメントが多数ついた。かつて民主党はアウトサイダーとして政界の非常識を批判する立場にあった。すっかりそのポジションを維新に奪われたことに焦りを感じていのだろう。
これまで書いたようにおそらく立憲民主党は地域に密着した政策ベースの成熟政党になるしか道はない。おそらく有権者はあまり政策には関心を持たないだろうから自力で成長する必要がある。だが今回の慌てぶりを見ておそらく彼らにはまだその覚悟や準備ができていないのだろうと感じた。
問題の根は深い。公明党が「若者を支援すると言って十万円ばら撒けば人気が出るだろう」と着装して始まった未来応援給付はさらに迷走している。これも庶民目線の弥縫策だった。親の年収が960万円以下の世帯に配るということにしたのだがこれが世帯でどちらかということなのか世帯全体ということなのかというのが議論になっているようだ。
もともとこの基準は児童手当制度を元に決められたという。児童手当ができた当時は男性が働き女性は働いても夫の扶養の範囲という家庭がほとんどだった。つまり国が標準家庭というものを勝手に作ってそれを元に制度設計をしていたことになる。
自民党としてはこの仕組みを使えれば早く配れるし「金持ちにも配っている」という批判を封じされるという着想だったのだろうが、蓋を開けてみれば「そももそも児童手当の仕組みが現代の共働き世帯の実情に合っていないのでは?」という収拾のつかない議論になりつつある。
つまり、庶民目線でこれは受けるだろう程度の政治をやっていると、後になって説明がつかないことがたくさん出てきてしまう。さらに庶民はこういう細かいことが大好きである。有権者も含めて細かな議論に夢中になり「そもそもこの制度は何のために作られたのか?」という視点が吹き飛んでしまうのである。