最近、違和感を覚えるキャンペーンがある。テレビが若者代表という人を呼んで「選挙にゆこう」とやっているのだ。政治に関心を持つこと自体はいいことなのだろうが、やり方がいかにも押し付けがましい。
テレビ朝日とTBSでそんな番組を見た。政治家向けにウェブサイトを作っているという会社の代表者とか妙に目がキラキラした識者の二十代を呼んで討論させたりしている。目が妙にキラキラした若者はどこか宗教指導者らしく見えたりもする。きちんとした感じが却ってうさんくさいのだ。
ついにNHKの日曜討論でもそのような番組が放送された。当選一回の議員と若者代表が討論していた。
違和感の正体を考えてみた。どうやら「若者も政治についてお勉強すれば選挙にゆきたくなる」という年寄り独特の上から目線が独特の臭気を放っているのだろうと思う。そのお勉強というのは当然NHKの博識な政治記者たちが知っている政治である。つまり、若者もボクタチのいうことを聞いて熱心にお勉強すればきっと政治が好きになりますよと言っているわけである。
我々の若い頃にはカラオケで演歌を歌うおじさんたちが同じようなことを言っていた。彼らは自分がいい気分に浸りたいかあるいは「自分の歌の良さをわかってくれるお客さん」を育てたいだけである。結局はナルシシズムの一形態に過ぎないのだが政治というなんだか大きなワードを前にすると感覚が麻痺しているのだろう。
一方でこんな発言もあった。若者は忙しい(あるいは「余裕がない」だったかもしれない)ので政治にまで気が回らないという。若者からしてみれば政治というのはおそらく放っておいてもなんとなく動いているものだ。それよりも大切なことがたくさんあるといっているのである。
司会者はこれを聞いて「二の句が継げない」という様子だった。そこに座っている意識高い系の若者代表をいくら説得したところで「そもそも政治に期待していない」人たちを政治参加させることなどできない。
彼らの賢い生活設計とは安定した会社に入り過疎化が進む地方や近郊ではなく都心に住み資産価値が下がらないだろう物件を研究し有利な金利でお金を借りるというようなものだ。政治を勉強してもコスパは決して高くない。それより不動産と金利の勉強をし、あとは日経新聞を読んで会議でデキル人風に見られるようなネタを仕込んだ方がいい。それでも時間が余ったら英語の勉強かなんかをやるのだろう。
つまり自己研鑽と努力が大切であり「社会」に投資してもそれほどリターンがないということを体験で学習した世代なのだ。不信感というのはある種期待の現れなのだが、そもそもいまの日本人は政治にも社会にも期待していない。
だから彼らは電子投票でもやってくれれば投票率は増えるかもしれませんねなどという。都市で投票所を見つけるのはそれほど難しくないが「どうせ大人はITなんか無理だろう」と実現しそうもない理由を作って選挙に行かない理由にしているのである。無難だし角が立たない。そもそも面倒くさいから「投票しない理由」を議論したくないのだ。
そればかりかこの「お勉強して選挙にゆこう」というアプローチ自体が若者を政治から遠ざけているように思える。つまり「政治はそもそも自分たちに関係ない」し「正しく理解しなければ政治について口を挟む資格などない」という政治観を振りまいている可能性があるからだ。
つまり「政治について発言するためには資格がいる」という感覚だ。
フランスではマクロン大統領に対する批判運動が起きている。根っこにはマクロン大統領が代表する新興エリート層に対する反発がある。マクロン大統領の主張は日本で言えば維新に似ている。成長についてこれない足手まといな存在は置いてゆかれても構わないという新自由主義的な考え方である。富裕税の減税や燃料への課税をきっかけに庶民階層が反発した。
彼らは生活が切羽詰まっているかあるいは成長から置いてゆかれたという感覚を持っている。こうした切実さがあるからこそ政治に対して抗議の声を上げるのである。こうした人たちは「自分たちはお勉強していないから政治に口を挟むことはできないんだな」などと大人しく引き下がってはくれない。
「政治をわかっている人だけが政治に参加しているわけではない」というのは内閣支持率を見ても明確である。大抵の人は「ほかに選択肢がない」とか「人柄が良さそうだから」というふわっとした理由で内閣を支持している。支持しない理由も「期待が持てない」が一位だ。おそらく政治がよくわかって投票している人などそれほど多くない。
単純に投票率を上げたいなら「実は自分たちもよくわかっていない」ということを素直に明確に打ち出したほうがいいのではないかと思える。