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日本人の三層構造説

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ニュースで「日本人は縄文弥生の二層構造」ではなく「縄文・弥生・古墳」の三層構造であるという話を読んだ。金沢大学の論文がそう指摘しているそうだ。朝日新聞読売新聞の二つの記事を見つけたがどれも似たようなことしか書いていない。朝日新聞は元論文(英文)へのリンクがありこちらはGoogle先生に読んでもらった。

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そもそも縄文、弥生、古墳時代がよくわからないことに気がついた。

日本は孤立した狩猟採集の歴史があり人口も停滞していた。寒冷期に入り人口が激減し農業技術を持った人たちが入ってきて人口が急激に増えだしたというのがこれまでの説だった。

この時に弥生人は縄文人と共存したために日本には古くからの遺伝子を持った人たちが残った。2000人規模の人口では淘汰されても仕方ないように思えるのだが、おそらくは渡ってきた人たちの人数もそれほど多くなかったのだろう。いずれにせよ、大陸の縄文人の親戚は子孫を残せず、今では痕跡がない。

今回の金沢大学の論文は弥生農耕を持ち込んだ人たちと国家を作った人たちは別なのではないかと指摘している。これが「古墳人」である。

縄文時代

前14,000年頃に始まり前10世紀に終わったとされる。縄文時代と弥生時代の切り替え時期は諸説あり検索すればするほどいろいろな説が出てくる。実はとてつもなく長い時間である。狩猟採集で生活していて土器が残っている。

どうやら地理的に孤立していたらしくこの頃に日本人の原型が作られた。今では日本とチベットにしか残っていないハプログループDという人たちが住んでいたとされている。

金沢大学の論文によると縄文時代の前期には朝鮮半島と日本はつながっていて日本列島に人が入ってくることができた。だが海面が上昇し対馬海峡ができ日本列島が孤立すると日本は外の世界から隔絶されてしまう。縄文海進のピークは6500年前から6000年前くらいまでだそうである。そしてこの時に列島に取り残された人たちの子孫は日本とチベット以外では絶滅してしまった。

このことから弥生系の人たちは在来型の日本人と共存したことがわかる。今回の論文によると1,500人から2,000人くらいに人口が減った時代があるそうだ。つまり飢餓の時代を経験していてかろうじて生き残ったことになる。

別の東京大学の論文によるとこの人口減少が起こったのは今から約2,500年ほど前のことなのだそうである。寒冷化で食料調達が難しくなったのだろう。大陸側にも同じような気象変化があり生存競争に負けた人たちが大陸から海を渡って日本列島にやってきたのかもしれない。

弥生時代

前10世紀に始まり後3世紀中頃に終わっている。稲作が始まり漢からもらった金印が出土していることから中国大陸からはある程度認識されていたことがわかる。ただそれほど強い関心はなかったようで記述もどことなくいい加減である。

今回の論文では弥生人は中国東北部の西遼河流域やあるいはもっと北側からきた人たちなのではないかと指摘している。西遼河流域は今でも稲作はできない地域だ。

この時期になんらかのイノベーションが持ち込まれ人口が増加していることがわかっている。一般には「稲作などの農業が持ち込まれたのであろう」とされている。東京大学の論文は大陸から稲作を携えてやってきた渡来人がもたらしたイノベーションだと言っているので従来の説を踏襲していることがわかる。

今回の新しい論文では「遺伝的には非稲作地域からやってきた人たち」が先に弥生時代に入ってきたことになり辻褄が合わない。縄文から弥生にかけてイネ以外の農耕が行われていたことは知られていて「ミレット(雑穀)栽培」として研究されているそうだ。

古墳時代

3世紀中頃に始まり7世紀頃に終わる。まとまった政治勢力が作られやがてヤマト王権に集約されてゆく。

今回の論文は、弥生時代に稲作を始めた人たちが直接国を作ったわけではなく古墳時代になって中国大陸から新しい人たちが入ってきた頃から国づくりが始まったと指摘している。つまり弥生農耕を持ち込んだ人と国家規模の農耕を始めた人たちは別だったかもしれないということになる。

国産の鉄原料はなく朝鮮半島に渡って鉄を手に入れていたらしい。つまり朝鮮半島との間に通商があった。古墳時代の中国情勢は混沌としていて統一国家がなかった。この混乱を逃れて日本列島に移民が増えたのだと説明する人もいる。文明的には優れたものを持っていた渡来人はいたのだが、既に「日本人」という集団もあったのだろう。在来の文化に大陸から持ち込まれた文字や文化が融合し「伝統的な日本の文化」と国家が作られはじめヤマト王権が薄葬令を出して古墳を制限したことで、古墳時代は終わった。

つまり古墳時代は地方にそれぞれの政権があった時代ということになる。

そもそも海を渡って日本列島に人が押し寄せたのは何故なのか

探せば資料は見つかるのだろうが、弥生時代になりなぜ多くの人々が流入してきたのかという説明は見つからなかった。地理的な隔絶は変わらないのだからなんらかの変動があったのだろう。日本列島で人口が激減していることから寒冷化が広い範囲で起こったのかもしれない。弥生時代は農業が持ち込まれ生産性は向上したが大規模な国家を形成するほど集団化されているわけではないという過渡的な時代である。どうやら遺伝的には中国東北部からシベリアにかけて住んでいた人たちとの共通点が多いようだがそれ以上のことはわからない。そもそも今回の研究ではサンプルになる人骨の数が少ないために確定的なことが言えないのだそうだ。

さらに古墳人という別の手段があったとして、彼らがなぜ日本列島に渡ってきたのかもよくわからない。何れにせよこの時代になると鉄原料の交易がありある程度まとまった集団の行き来があったことはわかる。だからこそ西日本各地に古墳が作れるくらいのまとまった政治的集団が生まれたわけである。

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