今回は多様性について考えている。英語やドイツ語では健康な状態を「whole」という単語で表現する。これを日本語にすると「まっとうな」だろうか。ここから何かが欠落すると流れが失われる。流れが失われると何が起こるのかというのが今回のテーマだ。極めて単純にいうと、暴走が始まるのである。
ヒトラーはオーストリアで生まれた。父親は私生児(つまり、祖父が誰だということが分からない)だったのだが、その事は後に問題になる。画家を志すが挫折し、ウィーンの底辺で生活する。このころに様々な「思想」に触れる。当時、ドイツ民族はそのアイデンティティを模索中であり、ロシアでは社会主義が姿を現しつつあった。ヒトラーが身につけたのは、そうした知識の寄せ集めだった。今で言うと、ネットで集めた知識を元に偏った思想を強化してゆくのに似ている。
ヒトラーが寄せ集めの知識から思想をでっちあげる
ノーマン・デイヴィスは、『ヨーロッパIV 現代』の中で、白人に共通の気質を見つけようという取り組みを「有りもしないもの」と一刀両断にしている。つまり、アーリア人というのは科学的事実ではなく、思想(あるいは幻想)であるということだ。
ともかく、ヒトラーはそうした知識を寄せ集め、「思想」を作り上げた。ドイツをドイツ人の手に取戻すということと、そのためにはドイツの東側に生存のための領域が必要だというのが、その主旨だ。
いったんはクーデターのような形で政権奪取に失敗した後、大衆を煽動することに成功した。ここから彼は民主主義のルールを一切破らずに、ドイツ全体に君臨することになる。
でっちあげられた思想が現実を変えようと取り組む
『ヨーロッパIV』を読み進めると、いささか気分が悪くなってくる。思想が寄せ集めなので、冷静に考えれば論破できそうなものなのだが、ドイツ国民はヒトラーを支持した。第一次世界大戦にも負けて、多分「考えるのを止めた」のではないかと思う。唯一この狂気を説明できる論理は次のようなものである。
思想が寄せ集めの場合、現実との間に差違が出てくる。すると普通は「ああ、思想が間違っているんだな」と考えるだろう。しかし「現実が有るべき姿ではないのだ」と考えることも可能である。つまり、現実から「有るべきでない姿」を切り取ってしまえばいい。
ヒトラーに率いられたドイツ人はまさにそれを実行した。ポーランドの知識層を殺し、近隣諸国に攻め入り、ユダヤ人や障害者などを「効率的に」抹殺しはじめた。今もって何人のユダヤ人が殺されたのかは分かっていないものの、だいたい400万人から600万人が殺されたそうである。
現実をいくら変えても、出発点が間違っていては、幸せになれない
しかし、ヒトラーはそのことで幸せにはなれなかった。極秘裏の調査の結果、自分の祖母がユダヤ人らしい家庭に奉公していたことを突き止める。確かな証拠はないものの、自分がユダヤ人の血を引いているかもしれないのである。部下に命令を出し、故郷の村を爆破する。
ヒトラーは「全ての権威あるものが自分の価値を認めている」と主張しつつ、言いようのない自信のなさにうちひしがれる。ソ連軍が検死した時には「自分で自分を去勢しようとしたのでは」という疑いがかけられたそうだ。自殺する直前まで結婚をしなかった。『ヨーロッパIV』では自分が父親になることを怖れた可能性が仄めかされている。
一言で表現すると「狂っている」で終ってしまうのだが、ヨーロッパ全体がこの狂気に巻き込まれたというのはまぎれもない事実である。民族や国民国家という概念が急ごしらえで作られていた、この当時のヨーロッパには「それぞれの価値観を持った人たちが、共存する」という多様性は失われ、純粋さを取戻すという名目で、大規模な殺人が効率的に行われることとなった。
多様性が失われたことでこうした暴走が起こったというよりも、実は健全な状態には多様性が含まれていると考えた方が分かりやすい。状況が不健全化すると「純化しなければ」という運動が起こり、自身を攻撃し始める。これが「多様性を損なう」ことになるということだ。そこで起こるのは成長どころか、自身の破壊である。
また、現在の欧米人のエリート層はこうした歴史を学んでいるというのも重要な点だろう。だから「国民国家」という概念に対して懐疑的な見方をするだろう。それを考えると、日本人の手に日本を取戻すというような主張が、どのように響くのかということがよく分かるのではないかと思う。
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