ミャンマーでクーデターが起こった。ミン・アウン・フライン総司令官が全権を掌握したうえで緊急事態を宣言し1年間議会を停止することにしたそうだ。選挙結果が気に入らないからという理由で議会を停止したのだが、2012年の「悪夢の自民党憲法草案」を思い出した。
ミャンマー軍はミャンマーの独立に大きな貢献をした。しかし国家運営・経済運営には失敗し民主化圧力が強まる。この時に担がれたのが建国の父の娘であるスーチー氏だった。スーチー氏には政治経験はなかった。民主化が抑えきれなくなると軍は民衆との妥協を画策するようになった。軍に議席を割り当てた上で議会を作りスーチー氏が大統領になれないよう憲法改正をした上で「形式的な民主主義」を目指そうとしたのである。
近年この軍の議席割り当ては縮小・撤廃の方向になっていたようだ。軍はおそらく自信があったのだろう。だが、スーチー派(NDL)が2020年の選挙で予想外に善戦してしまう。日経新聞は次のように伝える。
65歳を迎える21年7月で定年となる予定だったが、その後は大統領を目指すのではとの観測も流れていた。ただ、昨年11月の総選挙でNLDが圧勝したのに対し、ミン・アウン・フライン氏の政界進出の足場となる国軍系の連邦団結発展党(USDP)は惨敗した。
ミャンマー全権掌握の総司令官、軍の影響力低下に危機感
おそらくミン・アウン・フライン総司令官には建国以来の伝統を持つ軍の統治に絶対的な自信があったはずである。だからスーチー派を抱き込んで民主化をしても自分たちが指導的地位にとどまれると考えていたわけだ。ところが民衆はなかなかそれを理解せず自分たちも支持してくれない。
ではどうするか。
目の前にある現実は嘘なので認めなければいいわけである。政治的に無知蒙昧な民衆は勘違いしているか騙されているのだ。おそらくミン・アウン・フライン総司令官にとってみれば今回の動きは極めて「真っ当な」判断だったのではないかと思う。
日本のようにある程度議会制民主主義が発達した国では「気に入らなければ議会を否定してもいい」というのはいかにも乱暴だ。だが権力者はそうは考えない。自分たちは常に良いことをしているはずであり理解できない人が悪いと考えるのである。
おそらく2009年の自民党にも大勢こういう人はいただろう。テレビで自民党は課題に叩かれた。公共事業などが「単なる無駄」であり「自民党政治は無能である」というような風潮が作られた。新しい形のテレビショーになれた弁舌さわやかな民主党系の政治家に比べるとテレビ慣れしていない自民党議員はいかにも見劣りする。
おそらくこの時点で自民党は「自分たちは正しいことをやっているのになぜか正当に評価されていない」という防衛的な状況に置かれたのであろう。自己愛の崩壊である。だからこのころの自民党は「天賦人権は日本人にはふさわしくない」とか「国民は国に尽くすべきである」と主張をするようになった。既得権を失ったというショックもあるだろうが、自分たちが否定されたということを正面から受け止められなかったのだろう。
そこで自民党がやったのが新憲法草案作りである。自分たちが負けたのは憲法が間違っているからだと考えたのではないかと思われる。
- 天賦人権の否定と制限
- 天皇権威の強化と軍の強化
- 緊急事態宣言による議会の制限
この当時の議会は自分たちを否定した「みっともない議会」であり、それは国益に沿ったものになり得ない。であれば制限してしまえばいいのだ。代わりに天皇権威と軍の力を背景にして自民党が政府を力強く指導すればいい。
結局、自民党はこの憲法草案を事実上捨ててしまう。彼らは居酒屋談義的な不満を憲法に不満をぶつけただけで終わった。その後憲法改正に固執するようになるが政権に復帰し正当化の必要がなくなったため、これが自民党の中核的な政治課題になることはなかった。
一方でミャンマーは軍人同士で結束して「自民党憲法草案の理想」を本当に実現してしまった。事前に全くもれなかったところから軍の行動力と結束の強さが伺える。こんなことをやるべきではないと考えて離反する人はでなかったのである。もちろん皮肉を込めてではあるが、ミャンマー軍の方が自民党よりも骨がある。
現在新型コロナが蔓延し菅政権の支持率が落ちている。一部、国政を占う意味でよく使われる北九州市議選挙では自民党議員が落選した。じわじわと漠然とした不満の矛先が自民党に向いている。
このまま自民党が否定されてしまっても自民党は反省はしないだろう。国民が自分たちのいうことを聞かず助けばかりを求めると思うに違いない。2012年憲法草案から想起できることは今回も彼らは国民を恨むかもしれないということである。罰則に刑事罰まで加えようと画策したことはあるいはそうしたメンタリティの現れだったのかもしれない。この自民党の自己愛の傷はいまだに癒えていない。菅総理は自助・共助・公助といっている。自分たちは善政を敷いているのに国民は甘えていてそれを理解しないと思っているのである。