連日、包摂と民主主義というような話を書いているので「この人はリベラルに違いない」と勘違いされることがあるのかもしれないと思っている。だが実際にはそれほどでもない。それどころか「心情的」には「外国人労働者は罰則付きで管理されるべきだ」と思うことがある。
連日寒い日が続いている。朝は南関東でも気温が零下になる。そんな日の朝に近所を通りかかったところ日陰の坂道に水を撒いている人たちがいた。横を通ろうとしたら滑って転びかけた。日陰なので冷やされた水が凍っている。しかも坂道である。「危ない」と思い注意した。
通じなかった。
英語でも注意したのだが英語もわからないようだ。2人は「トルコ人だ」と言った。それだけ覚えているのだろう。少し戸惑ったような笑いがアジア的である。何を言っているのかわからないらしく近寄ってきて足を滑らせかけた。そこで初めて凍っていることに気がついたらしい。だが水を撒くのはやめなかった。
電話の仕草をして「日本語がわかる人につないでくれるよう」に頼んだ。電話の向こうで「なんだうるさいな」という感じのトルコ人が出た。英語で話そうとしたところ、彼は「日本語はわかる」と怒ってた。外国人とみると「ニホンゴワカリマスカ?」と下に見られることがあるのだろう。非白人の中には英語で話しかけられるのを極端に嫌がる人がいる。一方で日本語がわからない組は「トルコ人で日本語がわからない」といえば普通の日本人が諦めることも知っているに違いない。
彼は「現場にいたが他の現場でトラブルが起きたからその場を離れた」と言い訳をしたが水撒きは止めてくれなかった。おそらく雇用主から現場をきれいにするように言われているのだろう。仕方がないので車のナンバーと顔の写真を撮影し「警察に届ける」と言ってその場を立ち去った。
立ち去って「そういえば彼らはマスクをしていなかったな」と思った。外国人=コロナというのはいかにも差別的だが「大丈夫なのか?」と思いいつもより念入りに手を洗った。
おそらく事故が起こるまで警察が動くことはないだろう。だから警察に電話をしても無意味なことはわかっている。ちょうど110番の日とかで「不要不急の電話が多い」とやっている最中だ。#9110という番号はあるが日・祝は休みである。相談する場所はない。結局連絡はしなかった。おそらく道は明日になれば乾くだろう。休み明けに連絡しても意味はない。
「彼らに社会的責任を問えるか」ということになるのだがおそらく無理だろう。実はこの人たちは解体作業に携わる人たちだ。近所のクレームを恐れて道をきれいにしているのだろう。現場を掛け持ちしているところから「安い賃金で働いているんだろう」ということはわかる。現地事情がわからない2名はそもそも最低賃金くらいはもらえているのだろうか。
日本社会は彼らを受け入れないだろうし彼らにも混じり合うつもりはないだろう。安い金で言われたことをやっているだけだから道が凍結して転ぶ人が出てきても「知ったことではない」ことはわかる。つまり道徳的な感覚に訴えることはできない。
となると、法律で「日本人の監督者」を規制をすべきだ。しかし地方経済は逼迫し監督官も足りていない。安倍政権は地方の要望で「安い労働力」を供給するために外国人の雇用拡大を決めた。だが新型コロナの対応がいやで逃げ出す程度の責任感しかないのだから移民に関しても「あとのことは知ったことではない」に違いない。
包摂というとリベラリズムや博愛と結び付けられることが多いと思うのだが、実は安全保障上の概念でもある。社会の枠外に置かれた人たちは「誰かが管理」するしかないのだが、そもそも人件費や管理費を抑える必要のある現場で働いているわけで容易に「管理できなく」なってしまう。
安倍政権の無責任な外国人受け入れはおそらく治安上の問題を各地で引き起こす。しかもそれは数世代に渡って続く。これはヨーロッパやアメリカで実際に起こっていることだ。ただそれを指摘すると「偏狭で純血主義的排外主義者だ」と非難されるに違いない。「同じ人間なのだから分かり合えるはず」とはいうものの、実際はそんなに単純ではない。社会に交じり合おうという気持ちのある人しか社会規範は守らない。民主主義の根底にはある種の相互的な契約が必要だ。
おそらく、在日朝鮮人・韓国人に関する差別意識もこの辺りに根元があるのではないかと思う。言葉がわからず社会規範を気にしない(地域に組み入れられていないのだから仕方がないのだろうが)人たちに対する意識が数世代前にうまれ、それが排外思想と結びついてしまうのだ。のちの世代が努力してもなかなかそれを克服ができない。
おそらくこの文章も2人の名前のある個人をトルコ人Aとトルコ人Bとしており極めて差別的である。日本語がわかるトルコ人留学生やトルコ系の日本人なら腹がたつかもしれない。でもそれがベトナム人Aでも同じことだ。
おそらく日本人がこの恐ろしさに気がつくのは包摂されない労働者が定着してしまった時なのだろう。あるいは全くそれに気がつかないままで新しい排外主義をうむのかもしれない。