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賽銭泥棒は取り締まるべきか

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テレビで朝から賽銭泥棒の取締りの話をやっている。数百円のために迷彩服を着た警察官まで動員されたそうで「金額ではなく住民の不安を解消することを優先すべきである」と美談として報じられている。これを聞いて「本当にそれでいいのだろうか?」と思った。

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まずQuoraで聞いて見た。案の定「犯罪は犯罪である」という意見と「費用対効果をみて捜査予算を支出すべきだ」という意見がついた。一見合理的でありマネジメント視点(上から目線)で政治と社会を語りたがるのが日本人である。自分を大きく見せることが力点になっている。

賽銭について分析した人はいなかった。これも想定通りである。決まりは決まりであり深くは考えないのもよくあることである。

宗教にお金を差し出すという行為は世界的に見ても珍しくはない。例えば仏教にも喜捨という概念があるし、キリスト教にも十分の一税という考え方がある。どちらも社会への還元や教会の維持に使われるお金である。ところが日本の賽銭はそれとは違った理解をされているようだ。どこか冷たく投げやりなお金のやりとりなのだ。

神社本庁はお米は神の恵みでありその感謝の念を込めてお返しをするのが賽銭の起源であると説明している。これは古くからの税に近い考え方である。一方で「お願いを叶えてもらうために賽銭を投げるのはよくない」としているものもあった。こちらも感謝の気持ちとして賽銭を供えるべきであって見返りを求めるのは良くないとしている。

賽銭というのは感謝の気持ちであってその感謝の気持ちは無心で供えなければならないという「無私の気持ち」はある。だが宗教側はそのあとのことは全く書いていない。説明責任という概念はない。さらにそもそも供える側はなんらかの見返りを求めていて「無私」ではない。かといって見返りを求める気持ちも強くない。賽銭にお百度参りほどの切実さはない。叶えばラッキーくらいのお願いの時に投げるお金が賽銭である。

形式的には集団主義的な形質が残っているのだが実は私は私であり神社は神社であるという冷たい関係がある。投げ出されたお金はおそらく誰かのものになるのだろうがそれは考えても仕方がない。これが日本人が昔から自然に持っているメンタリティである。そしてこの精神はまつりごととも呼ばれる政治や税の使われ方にも現れている。

一度払った税金のことは気にしても仕方がない。だがそれを誰か他人のために使われるのはいやなのである。困った人を助けたりするのはもってのほかだ。どこまでも冷たいのが日本人の感覚なのだ。

仏教には喜捨という文化がある。ラオスのルアンパバーンの托鉢などが有名である。ここは観光地になっていて外国人が喜捨を体験できる。この托鉢はかなりショッキンだ。お坊さんたちはもらったお米などをラップすることもなく子供たちのカゴに残飯のように投げ入れる。実は喜捨は再配分になっている。つまり喜捨とはもともと貧しい人たちに食べ物を分け与える行為であってお坊さんは再配分の手伝いをしているのだ。

それではお坊さんたちが食べてゆけないような気がするのだが、彼らが食べるものは実は町の人が別にお供えしているそうである。喜捨は社会に対して分け与える行為でありそれとは別にお坊さんの生活を支える人がいることになる。

キリスト教会にも「十分の一税」がある。中世には重税だったようだが信徒の間には今でも収入の一部を協会に寄付する伝統がある。現代のキリスト教は教会に通う信徒から集めているのだがおそらく信徒は協会の運営にもも関わっている。こちらも教会の生活は信徒が支えるという伝統が基になっているものと思われる。また西洋における税の使われ方の違いも理解できる。

大きな神社や仏閣を除き冷たい関係の日本では社会を地域住民が支えるという伝統はなくなりつつあるのではないか。昔から住んでいる高齢化したした有志が細々と支えるという神社は多いはずだ。小さな神社が維持費を賄うためになけなしの賽銭に頼っているのかもしれないしそれでは全く足りないのかもしれない。

一方で宗教が持っていた再配分と施しという精神は忘れ去られている。もちろん賽銭泥棒は悪いことなのだが、神社からなけなしのお金を持って行かなければならないほど追い込まれているか精神的に荒んだ人がいるのかもしれないという想像力は今の日本人には働かない。ところが日本のマスコミは慈悲の精神をすっかり忘れていて賽銭泥棒をあたかも社会の敵のように糾弾して番組を作り広告費を稼ぐ。

この話で最も違和感を感じるのは「賽銭を施そうという人が誰もいない」という点である。日本の社会ではこれはもはや議論にすらならないようだ。

そんなことを考えていたら日本で自殺者が増えているという記事を読んだ。特に若い女性がコロナで追い込まれてなくなっているそうだがマスコミはほとんどこのニュースを伝えない。他者が誰かに頼ることを忌み嫌うだけでなく自分自身が誰かに頼る道を選ぶくらいなら死んでしまおうという人たちが出ているということになる。それくらい「自己責任」という言葉は日本人に刷り込まれているのである。社会に期待しないし誰も助けないのが日本人なのである。

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