日本という国から成長が消えそれに伴って未来志向のリベラルも消えた。その一つの象徴が民主党を中心とした野党の堕落だろう。今や与党批判に明け暮れ、野党同士でどこが勝った負けたと大騒ぎしている。では、その未来志向の消失は地方にどんな影を落としているのか。大阪と千葉の実例を踏まえて観察してみたい。
大阪都構想が最後の最後まで揉めているらしい。11月1日の投票を控えて期日前投票も伸びているそうだ。何か維新にとって都合が悪いことが起きているらしいということを知った。橋下徹さんのTwitterがきっかけだった。何かのスポーツの試合だったらゲームを流さなければならないような暴挙だというようなことが書いてあったと思う。だが、あまり興味がないので対して何も考えずに流してしまった。
次にこのニュースを知ったのは大阪市の財政局が試算を謝罪したという記事だった。かなりの異常事態である。
維新の大阪都構想が実現されればコスト増になるというような試算を大阪市の財政局が出したようだ。市長がこれを厳重注意し引っ込めたのだという。
改めて橋下徹さんのTwitterを見た所、毎日新聞批判一色になっていた。毎日新聞が誤報を出していて、それに乗って自民党が大阪都構想批判を繰り広げているというようなことが書かれていた。猪瀬直樹さんなども「参戦」しえらい騒ぎになっているようである。日経新聞によると松井市長が出てきて財政試算は虚偽とまで言い切っているそうだ。
毎日新聞の元記事も読んでみたのだが、そもそも地方自治体の合併を推進するためにスケールメリットがあったほうがいいという仮定が算出根拠になっているようだ。合併が進めばある程度のスケールメリットは確かに生じるだろう。だが、逆に大きくなり過ぎれば効率は悪くなるはずである。とても乱暴な議論に乱暴な議論が乗っている。これでよく「議論」などと言えたものだなと思った。この程度の話を「政治議論」と言っているのが今の日本である。
議論が乱暴なのは維新が問題解決ではなく破壊を望んでいるからだろう。解体を恐れた大阪市の職員が最後の抵抗に出たとも読める。普通の市長は市職員と一体なものだが大阪市は対立しているのを隠さないのだなとも思った。もはや住民と職員が一緒になって問題を解決しようという空気はなさそうである。
大阪都構想については色々な意見があるようだがあまり興味が持てない。大阪の没落の原因は産業構造の転換についてゆけなかったことにある。その影響は北部より南部(和泉・河内)の方が強い。その不満に乗って出現したのが維新である。維新は南部の貧しい地域の方が勢力が強い。中間工程が中国に流れて繊維産業が崩壊した和泉は特に「日本のラストベルト」と言って良いのかもしれない。
ただ大阪市の北部にはまだ自民党地域が残っている。これを潰して大阪を制圧したいというのがおそらく維新の目的なのだろうと思う。そのためには大阪市を解体するのが手っ取り早いのだろう。だが、大阪の没落の原因は産業の衰退なので大阪市を解体しても南部が衰退から立ち直れるということにはならない。ラストベルトの怒りは単にうまく言っている地域を引き摺り下ろして共に地獄を味あわせようという泥仕合になりがちである。
その意味では、大阪市政の混乱はアメリカの大統領選挙の混乱に似ている。あれはラストベルトが両海岸の繁栄を恨んで起こした破壊ゲームである。今のゲームのルールでは勝てないという人たちが体制破壊をはじめ、それが別の階層に伝播するという図式である。その結果起こることは社会の大混乱である。
大阪に未来志向の政治はもうない。そもそも未来などないからだ。
一方、千葉ではまた別の動きが起きている。鈴木大地前スポーツ庁長官が森喜朗さんに叱られて千葉県知事選挙を降りてしまった。鈴木さんは意欲を示したと伝えられているが後見人に反対されるとあっさりその決意を覆したことになる。県知事になってからこんなことをやられては困る。千葉県政は千葉県民のものであって森喜朗さんのものではないからである。事前に鈴木さんが排除されてよかったと思う。
千葉県は東京都に近く大した政治課題がなかった。おそらく現在の森田健作知事もお神輿として担がれたのだろう。千葉には未来はないが、かといって破壊につながるような怒りもない。東京の横にくっついていればそれなりになんとかなるという地域だからである。
だが、最近では千葉独自の問題が出始めている。
例えば2019年に台風が千葉県を襲った。東京から遠く成長に取り残された千葉県東部と南部にも被害が及んだのだが、森田健作知事はリーダーシップを発揮することはできなかった。
さらに新型コロナウィルスが蔓延すると、神奈川県の黒岩知事と埼玉県の大野知事がテレビに登場する。テレビ慣れした知事たちが対応をする中で森田県知事だけが表に出てこなかった。
おそらく彼自身「お神輿では務まらない」ということがわかったのだと思う。更に厳しいことを言えばもともと県民に寄り添って問題解決をしたいという意欲はなかったのかもしれない。
だが、そんな森田さんを担ぎ続けてきた自民党の意識は変わらなかったようだ。新しい神輿として新しい知事候補を探した。最初から最後まで鈴木大地さんが何がしたいのか本当に出たいのかということはわからなかった。最終的には森喜朗さんが出てきて難色を示したことで終わってしまった。誰もが県知事は神輿であるということを疑わない。
自民党の意識も森喜朗さんの意識も全く県民を向いていない。これが批判者がいなくなった政治の実態である。うちわの理論でリーダーを決める動きが出てきてしまうのだ。そこには未来に向けたビジョンも、現状に対する解決策も、県民に寄り添う姿も見られない。
資本主義・民主主義社会にとって成長は必ずしも必要な要素ではないのかもしれない。だが実際に有権者が成長を諦めてしまうと民主主義はどこかおかしな方向に向けて転がりだしてしまう。大阪と千葉の事例はそれぞれ違った意味でそのことを示唆している。