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日本学術会議の問題はやはり思想調査だったようだ

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日本学術会議をめぐる説明が二転三転している。特徴的なのはこれが撤退戦になっているという点だ。政府の説明は憲法に抵触する可能性が極めて高くなってきたがおそらく日本人は問題視しないだろう。そもそも自分の暮らしに表現の自由があるなどと思っている人はそれほど多くない。表現の自由が本当に支持されていれば職場や学校で政治的な意見を表明する機会は今よりもずっと多いはずである。ではこれはいいことなのか悪いことなのか。

おそらくかなり悪いことだろう。

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おそらくこの菅政権の姿勢は、日本の国力低下をより加速させる。

社会を成長させる発明は平凡の中からは生まれない。最初の段階は管理することなどできない。それはとりとめのない思考の塊にしか過ぎないからだ。学術界がそれを整理しようが政治が介入しようが起こることは「平準化」である。平均的な思考の中からはイノベーションは生まれないのである。

これは経営学の世界ではよく知られている。2008年から2009年ごろこのブログを始めた時にはこのイノベーションの話ばかりを書いていたのだが受け入れられることはなかった。イノベーションを成功させるためには突出した思いつきをどれだけ着地させられるかが重要である。「管理」は思いつきを社会に定着させる過程では極めて重要になるが最初の着想段階では無力だ。当時のアメリカ(オバマ政権誕生の前後に当たる)には盛んにそんな研究がされていたのだがすでに社会が停滞していた日本でそれが議論されることはなかった。

この問題は左右対立というフレームが与えられているためにSNSの議論は活況なのだが実は同じ極の話しかしていない。例えて言えば「当たる宝くじだけを書い続けるためにはどうすればいいのか」という程度の話をしている。それを学術界がやるのか政治が介入するのかということで延々と議論が続いているが、どちらも正解ではない。

日本はもう何十年も経済成長をしていないので突出したファーストペンギンが社会を変えるという事実はすっかり忘れ去られてしまっているのだろう。ノーベル賞を受賞した山中伸弥教授が「日本の学術界は阿倍野の犬の実験ばかりしている」と書いているそうだ。学術界は自分たちが理解できるものしか評価できなくなっている。このため二番煎じの実験ばかりがもてはやされるそうである。教授が勉強しなければ評価できない研究は嫌われるため特定の分野にばかり研究が集まるのだという。

これは科学技術だけでなくそのほかの分野でも起きているようだがあまりにも当たり前すぎて批判の対象にはならないようだ。このように、おそらく日本の学術界は行き詰っている。では政治はそれを改革できるのだろうか。おそらく無理だろう。

最初、菅総理大臣は総合的・俯瞰的に判断したと言っていた。だが、これが世間から反発されると一転して「私は見ていない」という説明になった。だがこの説明には無理があった。決済する書類が残っていてすでに野党への説明が終わっていたからである。

この時点では「官僚の首を差し出して総理と官房長官を守るんだろうな」と思っていたのだがそうはならなかった。結果的に悪者になったのは杉田和博さんという官房副長官だ。杉田さんは公安・警備畑出身で内調の担当もされていたのだという。おそらく思想調査だったんだなと思った。この思想調査の根幹はおそらく共産主義者パージなのだろう。戦後独立期の発想がまだ残っているのである。それくらい古い発想で仕事をしているのだ。

我々は「政治と学術」という二項対立に囚われているのだが、実はこれは同じ極の話である。自分たちの作った枠組みが檻になっていてそこから一歩も出られない。さらに杉田さんが「共産主義者は社会の敵だから排除しました」とも言えない。日本の政治はいくつもの檻に閉じ込められている。

憲法の規定には思想信条の自由というものがある。これが檻になっている。憲法第19条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」という規定である。過去の公表した言論や公表していない私的な活動であっても政治史的な思想を元に不利益な処遇をしてはいけないということになる。警察官僚出身者の具申にしたがって特定の思想を排除しているとはとても表立っては説明できないだろう。

日本人のほどんどはおそらくこの憲法の規定を信じていない。だから公の場では自分の政治的主張は口にしない。だから他人の権利も守られるべきだとは考えない。むしろ「他人だけが特別扱いされるのは許せない」という気分になる。なのでこの規定は檻としてしか機能しない。

檻はまだある。日本国憲法は戦争の反省から特定の権力者たちが国を私物化してはいけないということになっている。これもアメリカが日本の権力者に押し付けた壮大な枷と言って良い。

この枷がある限り政府は民主的に国民から支持され続ける必要がある。特定の人たちの指示だけを求めて利益分配することはできなくなるので経済全体を成長させ続ける必要があるのである。ところが日本政府はある時期からこの役割を放棄してしまったがそれを隠して形ばかりの改革をぶち上げ続けてきた。郵便局をいじめ、公共事業を叩き、今度は民主党を悪夢の社会主義者だと罵った。今度は印鑑や学術界が憎いという。

成長という前提も単なる檻になった。誰も信じていないがかと言って放棄もできない。

問題の本質は政治も学術も新しい価値を作り出せていないという事実である。そうなると「誰かが受け取るべきだった利益を別の誰かに渡さなければならなくなる。例えば非正規雇用を作って経営者と派遣業者を儲けさせたり、携帯電話会社が儲けすぎているからと言って携帯電話料金を引き下げますよとか、オリンピックを名目に建設業者に仕事を回したりするのも同じようなことだ。成長の止まった社会では利益は誰かから盗んできて誰かに渡さなければならない。

日本政府は本来期待されていた役割を果たせなくなっている。これを隠して説明すると何かが黒塗りになる。

菅政権に残された道は一つしかない。学術界を恫喝して黙らせたのだから、あとは政府が自分たちで全て着想するしかない。そこで出てきた画期的なアイディアがクーポン券を配って旅行業界を救済するという画期的な弥縫策である。

予算の消化はあまり進んでいないようだが追加の予算案が検討され始めた。政府が無限に保証しますよと言わないと大手観光業界は納得しない。一方テレビでは印刷の悪いクーポンが引き当て不能になる事例も出ているそうだ。質の悪い印刷のクーポンが実質的に通貨の代わりになっている。まるで貨幣が市中で改鋳されて信頼を失うのを見ているようだが、まともな経済学者を入れない発想などこんなものだろう。そればかりか高橋洋一さんが新しい内閣官房参与になるそうである。

政府はもはや少人数で場当たり的な解決策しか出せない。あとはこれに国民がどれくらいお付き合いできるかということになるのだろう。

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