「アメリカのサイレントマジョリティの人が抱える怒りがトランプ大統領再選の原動力になっているようだ」という回答をQuoraで見かけた。管理しているフォーラムにシェアしたところ、情報感度が高い方から「よくわからない」というコメントをもらった。常々鋭い問題提起をする人だなあと思うのだが「よくわからない」というのはとても素直でいて的を射た指摘だと思った。日本とアメリカでは状況が全く違っているのでわかるはずなどないのだ。
例えば日本人男性は「母国では女性を差別しているのではないか」という疑いの目に晒される。一方でアジア人として差別の対象にもなっている。おそらくこれは体験した人でないとわからない感覚なのではないだろうか。差別は想像しやすいのだが「潜在的な差別主義者だ」と思われる体験をしたことがある人は日本にはあまり射ないのではないだろうか。
アメリカには差別がありみんなそれを知っている。でもそれを口に出してはいけない。もちろん差別主義者だと見られることはよくない。だが実は「差別されている」とほのめかすのも基本的にはNGだ。相手を人種差別主義者認定することになってしまうし「能力や出自のせいにして努力しない人だ」と思われてしまうのである。差別はあるがないふりをして過ごすというのがアメリカ社会だったわけである。だからこそポリティカルコレクトネスを発揮して差別とは無縁であるということを証明し続けなければならない。
トランプ大統領はこのパンドラの箱を開けた。
ではトランプ大統領はなぜこれほどまでに支持されたのだろうか。例えば、マジョリティの白人男性は長い間失敗のいいわけができなかった。差別とは無縁なのだから「単に努力が足りなかった」ことになっていたのである。彼らは子供の頃から自助努力と競争を求められるので「結果的に負ける」ことはアメリカではとても悪いことなのだ。白人たちはやっと負けを誰か他人のせいにできるようになった。
また、アメリカが有色人種が支配する国になってしまうのではないかと本気で心配している人たちもいる。これは長い間降り積もった感情なのだろうが、おそらく有色人種のオバマ大統領が選ばれた時点でピークに達したはずである。
一方、差別されている側も「人種背景を言い訳にしてはならない」という建前があった。これがトランプ大統領の出現とコロナウイルスの蔓延によって崩れてしまった。統計上、新型コロナウイルスの被害者は黒人やヒスパニックの方が多いという状態が可視化されてしまったことも大きかったのだろう。BLM抵抗運動に落とし所がないのは当たり前である。ないふりをしてきたものが実際にはあったということが統計上証明されてしまったのだ。あとは燃え上がるしかない。
トランプ大統領が全て仕組んだことではない。長年降り積もったものや突然やってきたものが発火して今の状態になった。背景にあるのは絶え間ない競争である。
これが日本人にはわかりにくい。日本のマジョリティは一段高い安全地帯にいる。いわゆる標準家庭に育った「普通の人たち」がかわいそうなマイノリティを見下している。だが「見下している」感覚はないだろう。日本人にマジョリティであることのペナルティはない。だから、彼らは悪気なく他人に判決を下す。働く必要のなかった昭和の主婦が共働きの息子の嫁を傷つけるのは昭和の主婦に全く悪気がなくその息子(つまり夫)もそれが善意だと思っているからである。
だが、日本にもプレイヤーとして競争にされされているマジョリティが出てきている。一部が差別意識を振りかざしつつトランプ大統領に共感するのはそのためだろう。彼らはマイノリティを潜在的なライバルと見なしており競争相手を減らそうとしているのだ。
それでも日本人のマジョリティの多くはこの感覚が理解できない。「全員が競争にさらされている」という実感がないからだろう。
いずれにせよ一旦開いたパンドラの箱はなかなか閉じそうにない。アメリカから競争がなくならない限りこの箱が閉じることはないのかもしれない。
この資本主義の毒は中国にも広がっている。中国が新疆ウイグルやチベットで「職業訓練という名前の強制」を行なっているというアメリカの人権団体の指摘があった。これに対して中国人はこれは貧困の撲滅だと言っている。
この記事を注意深く読んでゆくと、習近平国家主席が貧困撲滅という名目で中国人全体を資本主義経済に組み込もうとしていることがわかる。記事には「今年中に貧困を撲滅するのだ」という目的を掲げていると書かれている。だがそれは絶え間ない競争のスタートでもある。少数民族はおそらく勝ち目のないマジョリティとの競争を余儀なくされるだろう。
もともと中国は共産主義社会なので資本主義経済への移行は任意だったはずである。だが成長を統治の前提に組み込んでしまったために高い成長を維持する必要がある。だから少数民族が共産主義経済(習近平国家主席から見れば貧困社会)にとどまることは許されない。もともと農村は中国のモデル経済だったはずだが、いつのまにかそれが逆転してしまった。
アメリカ人は自発的にアメリカに来たことになっているのだが中国は強制的に新疆ウイグル自治区の住民やチベットの住民を強制的に国家が経済に組み込もうとしている。そしてそれをアメリカの人権団体が非難する。新疆ウィグルの人たちやチベットの人たちを競争に巻き込むなと言っているのだが、彼ら自身が「自発的に競争社会にやって来た人たち」の子孫である。その言葉に説得力はない。
資本主義には競争という毒がある。適度な毒は社会を成長させる活性剤になるのだが行きすぎた毒は分断を生む。民主主義というのは「建前上の平等」を前提にして人々を競争させてそのエネルギーでかろうじて成り立っている社会である。
おそらく資本主義経済と民主主義の組み合わせは終わりを迎えつつあるのだろう。正解はどこにもなく逃げ出す場所もない。そればかりか中東やアフリカからヨーロッパ資本主義社会に向けて今でも多くの経済移民が命がけで押し寄せてくる。「豊かさの追求」というゲームにはそれくらいの魅力があるのであるのだが、彼らが向かう先は正解なき混沌でもある。
日本人はこの資本主義と民主主義の組み合わせを「正解」と考えてその上に自分の意見を構築したがる。だが、おそらくその前提は崩れているのではないかと思う。