女優の芦名星さんがなくなった。詳細はわかっていないが自殺だと考えられているようだ。ネットでは去年付き合っていたという有名俳優との関係が噂になっていた。一方、テレビはこの話題を扱いたいが自殺を誘発しては困ると思ったのか相談ダイヤルの番号を流している。追随型の自殺は相談ダイヤルで防げそうだが「この手の自殺」は相談ダイヤルでは防げないだろうなと思った。
これに先立って三浦春馬さんがなくなっていたので、芦名星さんと三浦春馬さんの類似点を探す記事がいくつか出ていた。三浦さんはのめり込み型であり、家族との間に問題を抱えており、完璧主義の性格だった。巷間「俳優をやめて自由になりたい」という気持ちがあったのだがやめられなかったというような話が語られている。一方、芦名星さんについては家族の問題は伝わってきていないがストイックな性格は共通しているように思える。
ではなぜストイックな性格が極端な選択に結びつくのか。
読売ドクターに「芦名星さんが語っていた「不安と覚悟とがぶつかり合う日々」」という記事がある。今回の件をきっかけに記事を発掘してきてきたようだ。直接取材ができないワイドショーでも参考に取り上げられていた。グラビアではなくクールな魅力を利用してファッションモデルとして活躍し、歌手になりたかったが女優になったと書かれている。見た目の印象がありその印象にふさわしい役割を引き受けているという印象がある。
気になる記述もある。結局俳優というのは体を貸しているだけという感想である。他人が期待して作りたいキャラクターがありその振り付けに従って動いているだけだということになる。
これは日本の演劇が採用してきたスタニスラフスキーシステムとは違っている。スタニスラフスキーシステムは形ではなく内面理解を通じて役になりきるというアプローチである。一方、日本には型を演じる歌舞伎のような芸術形態もある。芦名星さんの演劇理解はこのどちらでもない。「自分を作る」時間もないまま、他人が期待する役に体を乗っ取られている。これが三浦春馬さんと芦名星さんのもう一つの共通点である。若くして社会の仕組みと期待を理解してしまっているのだが、自分を理解する時間は与えられなかったしその必要性もだれからも教えてもらえなかったのだ。
役の内面理解をするためにはまず比較対象となる自分が必要だと考える西洋演劇の伝統から見るとこれは異様なことだ。また個人を必要としない日本型演劇にはしっかりした型があり「それを倣えばいいこと」になっている。現代のテレビ・映画にはそのどちらもないのだろう。
芦名星さんは「役を演じているときには、「私自身」は必要ない。私の肉体を使って、別の人生を描くということが理解できました。」と言っている。スタニスラフスキーシステムの基礎はその人の人生だし、型の踏襲である歌舞伎でも普段の生活が個性となって出てくる。だが、芦名星さんは演技をしている間、私自身は全く必要ないと言っている。
東スポは共通点を探そうとしているが「内面に何があったのかよくわからない」と結論している。おそらくこの「よくわからない」というのが本質なのではないかと思う。
日本社会には元々の伝統があるのだが、西洋の行動様式を一部取り入れてきた。だがそれが中途半端なまま揺り戻している。その結果ときどきとんでもないことが起こるのである。我々はこれまで持っていた雛形も放棄してしまい、西洋の伝統の背景にある原理も習わずきてしまったのだ。
我々は人間の見た目によって「この人はこうあるべきである」というようなイメージを持つ。中にはこれを気にしないで自分らしさを出してしまう鈍感型の人もいるのだろうが、三浦さんも芦名さんも周囲の期待に応えて「他の人が感じる自分らしさ」を演じていたのではないかと思われる。
これが冒頭で「自殺相談が役に立たないだろうな」と思った理由だ。おそらく、相談した時点でこの人たちは「相談者の期待している人間像」を演じてしまうのではないかと思う。その演技があまりにも自然すぎるので相談員といえども、本人もそれが演技とは感じていないのかもしれない。
周囲の期待に人生を乗っ取られた人は一人になりたがる。三浦さんもサーフィンが好きだったり誰も自分を知っている人がいない国での語学留学などを経験している。芦名星さんの記事を読むとキャンプが好きだったと言っている。だが一人になってしまうと社会生活は全く失われ自立して生きてゆくことができなくなる。
おそらく、こういう記事を書くと「有名人の名前を利用した上で決めつけている」と感じる人がいるだろう。それでもこういう記事を書くのはおそらく現在のコロナ禍でこういうリスクを抱える人が増えることが予想されるからだ。コロナ禍で自分について考える人がきっと増えるはずだ。だから、否応無しに「相手の期待に応えていない時の自分は空っぽである」と気づいてしまうのだ。
コロナ禍では自殺が増えていると言われている。おそらく普通の人は生活困窮者が増えるので自殺者が増えるんだろうと予想しているはずである。自殺防止という観点からはこのアプローチでいいのだと思う。相談にのってやり経済的な支援を与えればいいからである。これは外から対応可能だ。
だが、相手の期待する人生を送っている人が自分を取り戻すために究極の選択をする場合には外からの支援は役に立たない。そもそも生活に困ってこういう選択をするわけではない。自分を抑えている人ほど実は社会では成功しやすいし人間関係にも軋轢が少ない。だから「あの人が」ということになってしまうのだ。
こうした人生の破壊行為はユングが「中年の危機」と名付けた現象だ。つまり、それ自体はありふれている。ただ、中年の危機が訪れるのは40代であると考えられていた。だが、三浦春馬さんも芦名星さんもそれにしてはあまりにも早かった。
中年の危機の破壊行為は社会に向けられることも多いのだが、破壊行為が自分に向いてしまう人もいるということにも気づかされる。もし、同じような選択を考えている人がいるならば、その破壊行為をどこか別のものに向けるべきである、と感じた。いずれにせよ人は他人の期待する人生だけを生きることはできない。おそらくそういう風に作られていないのだろう。