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寂しい人はなぜネトウヨになるのか、そしてなぜ他人に吠え掛かるのか

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今日は寂しい人はなぜネトウヨにになるのかということを考えるのだが、そろそろ「ネトウヨ」に代わる新しい言葉が必要だなあと思っている。

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だがそのためには「ネトウヨが何か」ということを考えなければならない。これが時代によって違いがありよくわからない。

アイヌの問題を出すと「アイヌなどいない」と言いたがるのはネトウヨだし、伊藤詩織問題に「そんなのは本人の心がけ次第だ」というのもネトウヨである。また自分たちに全く関係がない黒人問題に対し「黒人だけの命が大切というわけではない」と言いたがるのもネトウヨである。

現在のネトウヨの表面上の特徴は二つある。マジョリティ意識と他者権利の否定である。ただ、ネトウヨの元が生まれた時の彼らには「マジョリティ意識」はなかった。どちらかというとメジャーのマスコミに忘れられた人たちであるという意識が強かったはずだ。なので最初のネトウヨは朝日新聞のようなメインストリームのメディアを自虐的なインテリだと言って攻撃していた。

朝日新聞的なメディアが当時の民主党政権をマニフェストに基づいた現代的な政党であると持ち上げる。と同時に公共事業は全て悪であるというような単純化が起こり、日本の伝統にしがみつくような人たちは全て軍国主義者であるかのような言い方もされた。これからは多様性と平和の時代であり憲法第9条はその象徴であるというような世界観である。

ところが民主党政権は失敗してしまった、すると、彼らの間に政権と意見を同じくする勝ち組であるという意識が芽生えた。彼らは自分たちの勝ちが相対的に奪われていると感じ敵が負けることで相対的に勝ったと考えるようになったのである。おそらくもともとは勝ち負けの感覚だったのであろう。つまり競争という意識があったのだ。

競争という観点からネトウヨを見るとよくわかることがある。実はアメリカにも同じような問題があるのだ。あるカジノ経営者の男性がカジノ経営に失敗した。これに腹を立てた男性は先住民がカジノ利権を持っていることがいけないと感じて訴訟を起こした。訴訟では負けるのだがその後も「先住民は不当な利益を得ている」とか「その人はとても先住民に見えない」などと言い続けた。リンク先を見ればそれが誰だったかわかるのだが、その男性はたまたま歴史の表舞台に再登場した。今でも先住民の権利を脅かし中国や社会主義などを盛んに攻撃し続けている。

この根底にあるのは自己目的化した競争意識である。競争に失敗するとそれを誰かのせいにしたくなる人たちがいる。今度は自分が利益を得ることができるはずだったのにそれが得られなかったといって他人を攻撃するのである。こうした心理状態を相対的剥奪というそうだ。

このカジノ経営者はどんどん敵を増やしてゆき、老齢になった今でも敵を攻撃し続けている。勝ち続けることだけが彼の人生の目的である。だが周囲のシステムは彼によってことごとく破壊される。国内のシステムだけでなく国際機関も破壊されつつある。これが日本のネトウヨの現状と重なる。彼らはとにかく勝ちたい。とにかく勝つことが問題なので実は論題などどうでもいいと考えているのであろう。

おそらくネトウヨ的議論はシステムを混乱に陥し入れ破壊するだろう。それを防ぐためにはそこからどう脱却するのかを考えなければならない。

  • 解決すべき問題は何かを明確にする
  • 議論に入り込む人がその関係者なのかそうでないのかという線引きをする

おそらく、この二つで問題は解決するのではないかと思われる。つまり課題に集中し挑発に乗らないことが重要である。

日本もアメリカもかなり激しい競争社会であり競争そのものが暴走しやすい傾向がある。これを解決するためには個人の競争と社会の競争を折り合わせてやらなければならない。アメリカの例を見ると共和党と民主党がこの競争に巻き込まれていて成長のリソースを奪っていることがわかる。この問題を解決しない限りアメリカは中国やインドに抜かれることになるだろうが内部抗争に夢中な彼らはそれに気がつかないかもしれない。日本ではここに大多数の無関心層がいて激しい消耗だけは防がれている。

競争が暴走するのは負けを認められないからである。これをいろいろ考えているうちに「これは中年の危機だな」と思った。個人が社会と折り合えなくなった時に中年の危機を迎えることがある。一種の負けなのだがこれがさらなる成長につながるだろうという見込みがある。中年の危機を克服するためには劣等機能と向き合いそれを成長させてゆくことが重要だ。これを個性化という。個性化が進むと周囲が気にならなくなるか、うまく折り合えるようになる。

ただ、これだけでは少し薄いような気がしたので東洋の転換思想についても調べてみた。禅の世界には十牛図というものがある。個人が真実を追求する旅に出る。真実は牛の姿で示される。だが、牛を追っているうちに全てが消え失せて合一してしまう。ただ空白では終わらず人はまた旅から社会に戻ってくる。

東洋と西洋という違いがあるのでそれぞれアプローチは異なっているのだが、個人の内面的な成長と社会の成長という二つが折り合っている事例である。競争が暴走しないために必要なのは内面の成長である。つまり内面が成長できないまま現実をおり合わせようとするから暴走が起こるということになる。

我々の平成・令和社会というのは実は個人の内的な成長と社会の成熟が実は奥で繋がっているという希望的観測を持てなくなった世界なのだろうということがわかる。にもかかわらず社会は成長しろと要求してくる。これでは暴発が起こるのは当たり前なのかもしれない。

だがここで気がつくのだが、ユングの最初のきっかけは中年の危機という不連続な経験である。また十牛図も普段の生活を放り出して牛を探しに行くという不連続から始まっている。つまり「まずはそこから離れてみる」という不連続が許されなければ成立しない。競争から離れることが重要なのである。

経済が成長し「頑張ればやがて報われる」と信じ込んでいた人たちがいる。だがゴールは一向に見えない。すると人々は怒り出し他者を攻撃するようになる。これが現代型の相対的剥奪である。

そう考えるとネトウヨというのは干からびていてもう肉もついていない骨を必死で守ろうとしている番犬のようなものなのかもしれない。閉じ込められた番犬(captured watchdogs)と言っても良いだろう。今かられから攻撃されている左翼の人たちはさしずめ被害者意識に彩られた悲観的なプロテスター(pessimistic victimized protesters)と言って良いが、彼らも社会が信頼できずウォッチドッグが彼らの世界をめちゃくちゃにしてしまうのではないかと怯えている。その意味では閉じ込められた番犬と悲観的なプロテスターは双子だと言っていいかもしれない。どちらもシステムの中に取り残されているのだ。あるいは自分で閉じこもっているのかもしれない。

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