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なぜ地方の観光産業は煩悶するのか

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本日は何故地方の観光産業は煩悶するのかというテーマでお送りする。煩悶というのは悶えて苦しむという意味である。その地域に独特の魅力があり「お金を払ってでも見に行きたいという人がいるのだから精一杯もてなしてあげよう」という誇りが観光業を支えている。つまりそれは単なる産業ではなく生業である。だが、その誇りが揺れている。だから煩悶するのだ。

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地方の「サービス産業」に未来はなかった。それは都市住民に余裕がなくなったからである。高度経済成長というのは、地方にとってみれば製造業で余裕ができた従業員がリゾートを楽しむことで地方に経済効果を波及させるというスキームだった。高度経済成長期における観光はレジャー(余った暇と書いて余暇と読む)産業だったのである。

ただ、バブルが崩壊して地方を都市住民が支えるというスキームは成り立たなくなっていた。これを画期的に変えたのが安倍政権である。国内の成長を諦めて中国人観光客の誘致に踏み切った。

Quoraにインバウンド政策について詳細に書いてある回答があった。観光産業は440万人の従業員を抱え市場規模は25兆円(2015年当時)だそうだ。これは全従業員の6.7%に当たる。わずか5%に過ぎない外国人がこなくなって収益は34%程度落ち込んだそうなので「宿泊する外国人」に支えられる構造になっていたことがわかる。また日本人労働者は忙しく旅行をしている余裕がない。旅行需要は長期休暇に偏っているそうである。日本政府も企業も自分たちの生産性向上には取り組まなかった。

日本の観光業は中国人のお金持ちに助けてもらわないと成り立たない構造になった。だがそれは認めらえないので「インバウンド」というよくわからない英語でごまかした。安倍政権には中国を蔑視する支持者たちも多いのだ。きれいにまとめることで大手代理店は産業規模を確保することができている。問題は受け手である地方の担い手たちだ。

まず手始めに2015年に沖縄県と東北を訪れるキャンペーン的なビザ緩和を始め、これを順次拡大させてきた。2016年の琉球新報の記事によると実際に沖縄県を訪れる中国人の数は劇的に増えたそうだ。2017年にはさらに対象者が拡大した。実は2020年4月からビザ申請の電子化を導入している。さらに申し込みの利便性をましたかったからである。実際に効果は上がっていてた。中国には経済の成長点があり余裕のある層が大勢いるのだ。

ただ、この外国人の増加(中国人だけではなかったようだが)はオーバーツーリズムという問題を生み出した。大手の代理店はオーバーツーリズムのことは気にしない。それは地方が勝手に対処すればいい問題である。

例えば京都では外国人が増えることで日本人が京都を楽しめなくなるという問題が起きているそうである。他者を受け入れられない日本人は外国人にも「日本人と同じように振舞ってほしい」と考える。だが外国人の比率が高くなるとそうとばかり言ってはいられなくなる。こうして外国人観光客は地方に収益だけではなく苛立ちも持ち込んできた。つまり嫌なものを引き受ける代わりに食わせてもらっているというメンタリティに陥っていたのである。Quoraで調べるとアメリカ人ですら「京都は昔のようでなくなった」と憤っている。

今回のGoToキャンペーンの懸念は「東京からお客が来たら新型コロナウイルスを拡散させるのではないか」ということだ。そもそもこの前提が間違っていることがわかる。そもそも国内旅行者はお金を使わないので中国からの旅行者を再解禁しなければならない。仮に東京からの客がキャンペーンによって増えたとしても補助をやめれば観光客はいなくなるだろう。さらに今回安倍政権は「形としては整えました」と言わんばかりに東京を排除した形でキャンペーンを始動する。おそらくあまり効果は見込めないだろう。

大口の客が見込めないのだから手近な旅行を増やそうというのは戦略としてはありだろう。例えば高齢者が平日に旅行をしようと考えたときに考えられるオプションはおそらく手近なバスツアー(宿泊は伴わない)か自家用車による旅行だろう。すると、観光客に直接補助をするか、あるいは高速道路の無料化などの政策が考えられる。東京や大阪などの都市圏は別にして、東北ブロックなしで相互訪問するようなプログラムというのは実はいくらでも作れる。

だが、今回の決定は東京の大手代理店を満足させるために(あるいはこれ以上怒らせないように)東京を排除したキャンペーンを始めるというチグハグなものになっている。とにかくお大手代理店はこれで延命できる。あとは地方が悩みを抱え問題を解決すればいい。地方は「政治的妥協だ」として受け入れざるをえない。彼らの自己決定権はない。こうして地方の観光産業にはどっちつかずでアンビバレンツな感情が生まれてゆく。その起源は「嫌なものを引き受けないと食べて行けない」という下請けが常に持つ独特の屈折だろう。

そのため知事たちの発言は揺れ続けている。日本は日本だけでやって行きたい。地方は地方だけでやって行きたい。「穢れ」を遮断したい日本人にとってはそれは自然なことである。だがその穢れをリスクとして受け入れなければ生きて行けないということもわかっている。大手はきれいなところだけ持ってゆく。これは大きいから当然のことだと日本人は考える。

地方の観光業が揺れるのは観光が嫌なことを引き受けざるをえないと思っているからである。小さな末端は嫌なことを引き受けなければならない。だがそこには「地方はとても一人ではやって行けない」という諦めがある。

おそらく「観光業は生業である」という誇りを捨てれば日本の地方は延命できる。新型コロナウイルスを引き受け税金を病床確保に振り向ければいい。地元の医療リソースが逼迫してもゲストのために病院を開けるべきかもしれないし、地域総動員とばかりに地方の医者を治療に当たらせてもいい。「依存型の観光でしか食べて行けない」と腹をくくるならそこまでしてもいい。それが下請け的生き方である。あるいは安倍総理はそう説明すべきだったのかもしれないのだが、おそらく総理が表に立って説明をすることはないだろう。日本人は諦めがいい。大きなものにははむかわないということを彼らはよく知っている。

「観光は仕事ではなく生業である」という誇りが日本のおもてなし精神を支えている。地域ごとに特色は違っていてそれぞれに工夫を凝らしながらどうもてなすかに知恵を絞ってきたのが日本の観光産業だった。観光産業は単なるレジャー産業ではないし、ましてやサービス業一般としてくくれるものでもないと考えてきた。それは大手にとってはとても都合がいいメンタリティだ。

おもてなしの精神は我々が先祖から受け継いだ美点でありそれを捨てて単なる下請けのサービス産業になるべきなのかは今一度考えたほうがいいかもしれない。もちろんそこに正解はない。地域の一人ひとりがどうすべきか考えるべき問題である。

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