演歌の成り立ちについて調べたことがある。日本人が伝統をどうやって捏造するのかということがわかる。おそらくネトウヨが考える日本の伝統というのも同じように捏造されたものなのだろう。「日本の伝統」にすがって自己正当化を図るのは日本人が宗教を持たないからなのかもしれない。
捏造という言葉に拒絶感を持つ人もいるかもしれない。だが、演歌の源流になったのは実は西洋音楽であるということがわかっている。日本の西洋音楽には二つの流れがある。一方は戦前に西洋にキャッチアップされるために始まった正式の音楽教育だ。もう一つはこの流れに乗らなかった大衆音楽である。戦後になりGHQという新しい音楽需要が生まれジャズなどの演奏家が育った。この演奏家たちが日本の大衆的な音楽も重ね合わせて独自に進化させたのが「流行歌」だった。美空ひばりや北島三郎などがデビューした当時、演歌というジャンルには別の意味があった。歌本を売るために歌を聴かせる人たちを演歌師と言っていたのだ。北島三郎は演歌師出身でのちにレコード歌手になった。
ところが高度経済成長期に入ると大衆的な音楽は古い価値観として忘れ去られてゆく。ちょうどフォークやグループサウンズという新しい音楽が出てきた時代である。この消えゆく音楽焦点を当てたのが五木寛之で日本の古い流行歌を「艶歌」としてリパッケージした。これが1960年代の終わり頃だそうだ。これがマーケティングのために使われるようになり「日本の伝統」という新しい衣をまとうようになったのが演歌である。
社会の都市化、近代化に伴い、「恥ずべきもの/捨てさるべきもの/克服すべきもの」として否定的にとらえられていた性質に「庶民の情念」といった新たな価値観を付与し、文化をリビジョン(改訂)させたというわけです。
演歌、いつから「日本の心」に? 流行歌が伝統の象徴になった瞬間
演歌の成立からわかるのは「日本人が何か遅れていて恥ずかしいもの」を内面に感じたとき「これは伝統だから」と言い訳することがあるということだ。日本社会は価値観を一つしか持たないので自分たちの歌が「古臭い恥ずべきもの」なのか「誇るべき伝統なのか」というのは大問題になる。ここから日本人の屈折が始まる。もともとあった出自を忘れるために記憶を操作し始めるのである。
演歌は1970年代に新しくできたジャンルだが、古くからの伝統があると思い込むようになる。つまり北島三郎は最初から演歌の歌い手だったというような具合である。だが、現実はこの記憶通りには動かない。
演歌はある年代の人が感じている原点のようなものである。従って別の年代の人たちにとっては全く響かない。平成生まれの人が演歌に取り立てて深い思いを持たないのは当たり前だ。だから、演歌は衰退する運命にある。というより衰退したものをリパッケージしてもそれが生き返ることはない。
さらに演歌を聞いている人たちも薄々は「自分たちが立ち遅れていること」は知っている。いわゆる二重思考状態にある。古臭いことを知っているからこそ「伝統だ」と言い張るのだ。
一旦「心情的に大きなもの」に固着してしまうと保護されて当然であるという屈折が生まれる。政治的に演歌を保護しろという運動があるそうだ。
今年3月23日、演歌や歌謡曲の復活を後押ししようと「演歌・歌謡曲を応援する国会議員の会」が超党派の議員により、設立されました。自民、公明、民主、共産など80人の議員が終結。杉良太郎さんや山本譲二さん、瀬川瑛子さんら演歌界の大御所も出席し、世間の演歌離れを防ぐ手立てを考えていく方針を確認。設立準備会で、杉さんは「日本の伝統が忘れ去られようとしている」と危機感を示しました。
演歌、いつから「日本の心」に? 流行歌が伝統の象徴になった瞬間
演歌が忘れられるのは外から新しい知識を入れようとしないからである。それは時代から取り残された人たちの抵抗運動みたいなものだ。だが伝統を自称するうちにそれを忘れてしまい「伝統が忘れられようとしている」から大変だということになってしまうのだ。
ネトウヨという保守の人たちも自分たちの伝統を偽装している。彼らは自分たちが民主主義を理解していないということを知っていておそらくはそれを恥ずかしいとも思っている。だからこそそれに対抗するために「伝統」に固執する。だが伝統と言っても多くのものは明治時代に西洋列強に追いつくために急場凌ぎで作られた仮の伝統であり、実は根っこがない。
例えば夫婦別姓に反対している人がいるが、よく考えると江戸時代の武士の女性には明確な姓がなかった。庶民に至っては姓を公式に使うことは禁止されていた。つまり「夫婦同姓」という原則はキリスト教文化圏のその当時のスタンダードに過ぎない。
ところがこの<伝統>は「夫婦同姓が破壊されるなら結婚なんかしなくてもいい」という倒錯した議論をうむ。二重思考の上に成り立っているので柔軟に変化させることができない。ネトウヨが内省を始めれば内部から自己崩壊せざるをえない。そもそもそんな伝統はないからだ。
言い訳に固執する人を論破するのは大変面倒だ。このコラムは下記のようにいちいち反論しているがこれは精神的疲労を生むだけだろう。
同じ姓を名乗る家族には一体感があって子どもたちが健全に育つが、そうでない家族には一体感がないから子どもたちが健全に育たない、だから選択的夫婦別姓反対、と悲しくなるほど浅はかな意見を真顔で言っている。家族が同じ姓を名乗らない文化は洋の東西を問わず世界のあちこちに見られる。それらの国では「(伝統的な日本と違って)家族に一体感がないので子どもたちが健全に育っていない」と、彼らの文化に対して喧嘩けんかを売るも同然の内容だったのだ。
選択的夫婦別姓“反対派”が主張するトンデモな理由3つ
これがいわゆる「ネトウヨ疲れ」の正体である。ネトウヨというのは言い訳を通じて相手を疲れさせることでドローに持ち込むというのが作戦なのである。だがその根っこには意外と深刻なものがある。彼らは説得に応じて内省を始めればやがて「日本にそんな伝統はない」ことに気がついてしまう。それは彼らにとっては世界の終わりである。一方夫婦別姓派の目的は女性であれ男性であれその人らしく生きられる社会を作ることだ。彼らは結婚は機能だと思っていてうまく機能しないなら「変えればいい」と考える。
折り合わないのは当然なのかもしれない。
偽装された伝統は単に羞恥心の裏返しなのだからそれ自体が害悪ということはない。だが、それを真実と信じ込み他人に押し付けようとした時にそれは害悪と呼ばれることになる。新しい考えを排除し古い間違った考えに固執することになるからである。夫婦同姓の議論が家族を破壊するように、作られた伝統に固執する人は日本人の伝統を破壊するのである。