フジテレビで櫻井よしこさんの言い分を聞いていたのだが「これ本当に日本はこの人たちに滅ぼされるのでは?」と思った。この文章も「櫻井よしこ」と呼び捨てにしたいくらいなのだが、そこはこらえておきたい。問題は人格ではなく思考だからである。最初は冗談だと思っていたのだがどうやら本気らしい。おそらく櫻井よしこさんは「自分が新型コロナウイルスに感染するなどとはつゆほども思っていないのではないだろうか」と思った。
フジテレビの朝の情報番組を見ていた。田村元厚生労働大臣・橋下徹さん・櫻井よしこさんが出ていた。橋下さんは「新型コロナウイルスは水際対策できないので共生してゆくしかない」といっていた。まあ残念ながらそれはその通りだなあと思う。この方が人気がある理由はこの「妙な現実感覚」にあるのだろう。非常に現場的というか大衆的な考えである。橋下さんは大所高所からこれを語るのがとても上手だ。
ところが櫻井さんがふらふらと変なことを言い出した。武漢ウイルス(この言い方は中国を貶めたい人たちが好んで使う言い方だ)を封じ込められるのは日本をおいて他にはないというのである。誰も「武漢ウイルス」をいい咎めることはなかった。この辺りがテレビ朝日と違っているところだ。テレビ朝日なら慌てて羽鳥慎一が玉川徹さんの発言を訂正しているところである。
だが「どんな秘策があるのだろうか」というのはちょっと楽しみだった。
「症状がある人は自宅で治せ」という。これが日本人の美徳だというのである。つまり精神性に訴えて「世間に迷惑をかけるな」といっている。誰がが我慢すればもっと弱い人に医療リソースが割り当てられるともっともらしいことは言っていたが、私はこれに感情的に反発してTweetを書きたくさんのリアクションをいただいた。
これが橋下徹さんとの間で奇妙な相乗効果を生む。つまり「どうせ治療方法もないし封じ込めにも失敗したのだから、罹ったら運が悪かったと思え」という結論になってしまうのである。「ああ、この人たちにかかると全ての社会問題はこう処理されるんだ」と思った。おそらくすべてのことは天災のようなもので「為政者としては仕方がなかった」と言いたいのだろう。運が悪い人たちは自助努力でなんとかするしかないが、政府はあとになって「情け深く施してやる」ことができる。こんな思考方法の人たちに政治を任せたらみんな殺されるなと思った。
これはおそらく「自分たちは決してウイルス感染しない」と考える人たちにとっては有効な思考だ。こうした問題から目をそらせば自分たちの失敗はすべて隠蔽できてしまうからである。だが、感情的に爆発した後「ふと、これは本当の問題ではないのでは?」とも思う。さらに考えてみることにした。
この話は実はさらに恐ろしい方向につながってゆく。同じ日の「日曜討論」を見るとどうやら封じ込めに失敗したこと、病院が足りなくなるということ、さらに病院に患者が押し寄せると医療崩壊が起こるであろうという予測は織り込まれているらしい。ここで考えられるのは二つの対策だ。
- 失敗を認めて国民に協力(忍従)を呼びかける。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」という方法。
- 問題をなかったことにして精神性に置き換える。「欲しがりません勝つまでは」という方法。
残念ながら厚生労働省のやり方を見ていると封じ込めの失敗は明らかである。我々は日々の暮らしでウイルスに対処しなければならなくなったようだ。もともと最初の感染者が武漢から入ってきたときに見逃したのは仕方がないかもしれない。情報はあまりにも少なかった。ところがダイヤモンド・プリンセス号対策をしているうちに情報は入ってきたはずだから専門家を組織して対策を練る時間はあったはずだ。全員を検査できないにせよサンプル調査くらいはできるだろう。
ところが厚生労働省は間違いを認められなくなっているようだ。自分たちで敗戦が宣言できないというのはおそらく昔からある我々の社会の問題である。
オーストラリアで解放者の感染が確認され、日本でも厚生労働省の職員の感染が確認された。国会議員は「自分たちは関係ない」と思っていたのだろうか国会が止まったそうだ。日本人の感染者も確認していることがわかった。つまり、当初の隔離政策は意味がなかったことになる。海外ではこの情報が伝わっており「日本政府は危機管理ができない」ということが広まってしまっている。
厚生労働省は「厚生労働省に感染が広がっていることがわかると業務に支障をきたす」と説明してウイルス検査を拒んだようだ。隠蔽思考がこの安倍政権の7年間か8年間で骨の髄まで染み込んでいることがわかる。彼らは失敗しないように自己改革する術を身につけることはなかった。それをどうやったら隠せるかだけを考えるようになってしまったのである。
問題の解決が難しいことはわかっているので知恵を結集しなければならない。だが、ネトウヨ的思考は「これは大したことない」と否定して隠蔽する。そして犠牲になった人たちに「おかわいそうに」という形ばかりの声をかけて問題をなかったことにしてしまうのだ。そうしないと彼らの求める「完璧な国家像」は維持できない。
政府は敗戦を認めずに形ばかりの戦線を維持している。そしてその戦線を維持するためには国民の忍従が必要だ。残された国民は櫻井よしこ師のいうことを聞いて民族の美徳を発揮するだろうか。
その答えも実は明確である。
ウイルスは目に見えないし政府も信頼できない。だから、市井の医療従事者が二次被害を受けている。まず相模原中央病院(最初の死者が出た)の医療従事者の子供が「学校に行けない」ということになったようだしDMATの関係者も差別されているようだ。本人だけでなく子供に矛先が向かうというのは相模原の例と同じだ。
つまり、国民は敗戦宣言ができない政府を恨むわけではなく。さらに弱者を見つけて叩いたり不安をぶつけたりするようになるわけである。安倍政権の数年で繰り返されてきた「弱いものを見つけて叩く」という習性のいわば集大成が「医療従事者とその子供達」いじめである。
日本人の美徳に頼る自己満足的解決方法で破壊されるのは高齢者の健康だけではない。我々の本来持っていた社会的(好きな人は国家とでも民族とでも言ってもらえればいい)一体感という精神的な資産が破壊されてしまうのだ。
こうした資産は我々の先祖が長い時間をかけて蓄積してきたもので、一度失われると再構成するのがとても難しい。我々は未知のウイルスと闘い、ウイルスが連れてきた噂と戦っている。さらにそこに「自分たちだけ助かればあとはどうなってもいい」というメンタリティとも戦わなければならなくなっているのかもしれないと思った。