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ワグナーのヒトラー

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ヒトラーと芸術について調べようと思ったのは、日曜美術館でクレーを見たからだ。ヒトラーによって前衛芸術は否定され、前衛認定されたクレーはスイスに亡命した。本の内容は、ワーグナーが作った宗教(バイロイト教と呼ばれる)をヒトラーが執行したというという主張だった。
この本を「ニュルンベルグのマイスタージンガー」のCDを聞きながら読んだ。

ワーグナー

この本に出てくるワーグナーは単なるダメ人間だ。いろいろな権力に近づくが、権力者を破壊しようとも試みる。そして、ドレスデン蜂起が露見すると「私は単なる傍観者だった」といいだす。女性にだらしなく、常に自分を大きく見せようとするのだが、財産管理能力は全くない。
オペラ関係の本を見てみると、ワーグナーは「バイロイトに立派な劇場を作りドイツオペラを理論的にまとめあげた」と書いてあるのだが、Wikipediaにはまた別の記述がある。父親と死別しユダヤ人の義父に育てられたという。『ワーグナーのヒトラー』では控えめに「両親の援助をあまり受ける事なく」という書き方をされている。ユダヤ人を敵視する論文まで書いているのだが、その態度は一貫していない。結局、フランスで否定されて泣きながら帰ってくる。
ワーグナーにはファンも多い。壮大な何かを作り上げた偉人だ。例えば、小泉純一郎さんもバイロイト詣でをしているワグネリアンだそうだ。「バイロイト」は確かに宗教なのだ。
「ニュルンベルグのマイスタージンガー」は、マイスターの称号を拒否しようとする主人公に「マイスターたちが、ドイツ芸術を守っている」と訴えて聴衆の支持を受ける場面で終わる。ドイツという概念は自明のものではなく、誰かが守ってゆかなければならない。だからこそ崇高なものだ。自明の概念を必死に守る必要はない。「ドイツ性」は自明ではないからこそ大切なのである。
普通の人たちはこれを文字通りにしか受け取らないだろう。
しかし、ドイツの運命をあやうい自らの自己とダイレクトに重ね合わせると、その意味合いはまったく違ったものになる。こうして受け取られた物語はどこか歪んでいる。本来、国がばらばらなことは、誰か明確な敵のせいではないはずだが、自己の危機に悩む人は、くだらない存在としての他者が存在しなければ、その崇高性が証明できないと考える。ユダヤ人という敵の存在があるからこそ「バイロイト教」が成立する。

ヒトラー

ヒトラーは父親から虐待を受けていたが、13歳で死別。「明るく、メデューサのように冷たい目をした母」とも18歳で死別する。ウィーンで画家にはなれないと否定されるが、見たものをそのまま写し取る能力があったそうである。友達の証言によると若い時分に「リエンツィ 最後の護民官」を聞いてから、これまで全く見たことがなかった革命的なことについての伝達が「堰を切ったように」開始されたという。
「イメージをそのまま形にすることができる能力」は重要なモチーフになっている。音楽的な興奮などを言葉にしないで再現できる力が、彼のスピーチ能力と結びつけられているのだ。「バイロイト教」は教典を持っているし、歌劇も台詞付きの(つまり意味のある)音楽だ。何かうまく行かないことが、国の運命や「敵」であるところのユダヤ人と結びついたとき、その確信は希望に見えたかもしれない。

考察スル

どうやら人間には、自分が着想した事には疑問を持つが、人から聞いたことは信じてしまうという困った習性があるようだ。自信満々な他人を通して受け入れられたビジョンは、めちゃくちゃな形を作る。
少年Aがコラージュしていたようなことが、ヒトラーにも起こっていたのではないかと考えるとおもしろい。自己肯定感のない人を空洞のある丸太だとすると、その空洞に何かが満ちたときに、爆発が起こる。芸術になることもあれば、一人か二人の殺人だったり、壮大な人殺しの発展する場合もある。いったい、何が結果を分けるのだろうか。
これを迫害された側のクレーと比較すると、別の性格が見えてくる。「この世では、ついに私は理解されない。なぜならいまだ生を享けていないものたちのもとに、死者のもとに、私はいるのだから」という絶望も、彼から絵を取り上げることはできなかった。しかしそれは「誰かこの世に存在していない人たち」には支持されているだろうという確信と一体だ。この人は何を目的に絵を書いていたのだろうか。壮大な体系をまとめあげようという姿勢と、内面を見つめ、ありのままに見てゆこうという姿勢の違いは何科。どちらかの芸術が優れていて、どちらかは偽物なのだろうか。
やむにやまれぬという意味ではどちらも同じくらい切羽詰まったものだろう。希望も絶望も、それ自体が問題なのではないのかもしれない。どこからそれらが生まれ、どこに行くのかということの方が違いを生み出しているようでもある。