占領下中道政権の形成と崩壊―GHQ民政局と日本社会党を読み終わった。後半の片山政権崩壊と芦田政権崩壊の部分である。
この本には二つのラインがある。一つはGHQの民政局のラインである。ケーディス民生局次長はニューディーラーであったそうだ。彼が日本の議会政治に積極介入し憲法改正を主導し片山政権を作り上げた。つまりここでいうリベラルとはアメリカ民主党のことであり、戦前の立憲政治でもソ連の影響を受けた共産主義でもない。そして片山政権はこのケーディスのラインに乗った。
ところがこの積極介入は思わぬ副作用を生んだようだ。この本には全く書かれていないのだがケーディスが昭和電工事件で汚職に関わっていた疑いが持たれているのだそうだ。それを暴いたのがG2であり、G2と吉田が近かったので「G2とGSの対立が吉田政権を作った」という評判につながったようだ。この本ではマッカーサーの使者としてアメリカに送られたケーディスが、衆議院選挙の結果に絶望して密かに職を辞したことなっているが、Wikipediaは昭和電工事件が露見しそうになったので身を引いたような書き方がしてある。
いずれにせよ、政治経験のあまりない人が議会の緊張から解き放たれて「好きなように国が作れる」となった時、舞い上がらないはずはないと思う。いつの間にか「僕の国ごっこ」になってもおかしくない。
この本では日本の憲法は日本の議会が作ったことになっている。押し付け憲法論が政治的課題になって共有される前の本なので特定の立場を強化するためにあえてそう書いたというものではないのだろう。
ケーディスは途中退場なのでそのあとの歴史検証でメディアに登場した時いささか無責任な対応をしているようだ。例えばこの古森インタビューはのちに改憲派によって好んで使われるようになった。各国の憲法を寄せ集めて突貫的に作られたという話になっているからだ。男女同権にしても若い女性のアイディアが採用されという経緯があるようだ。日本側も「この好ましい女性が書いたんだったら採用してもいい」と応じたという逸話があるそうだ。「あまりにも軽い」と考える人がいても不思議ではない。
いずれにせよケーディスは途中退場させられ民政局も縮小された。あまり日本の政治に深く関わらないようにというわけである。本国でもニューディーラーの影響力が失われて、代わりに社会主義者のようなレッテルが貼られ、最終的に「赤狩り」議論が行われるようになる。段階的な社会主義排斥運動はやがて「マッカーシズム」と呼ばれた。
ところがG2はその後吉田経由で日本の政治に口出しをしたわけではないようである。アメリカは「GHQが日本の復興プロセスに過度に関わらないように」という指示を出し、その後日本は吉田のもとで経済復興路線を歩むようになる。
アメリカの共産化への懸念が何だったのかはよくわからないのだが、アメリカ側の文脈から見ると民主党が推し進めようとしていた「社会保障・公民権・労働組合監視の撤廃」に対する共和党(企業)と南部民主党(黒人差別派)の揺り戻しだったのだと思う。つまり世界各地で労働者たちの反乱がありそれが最終的に本国の既得権益層を脅かすのではないかという懸念があったのではないかと思うのだ。
ところが、アメリカの政策変換があったからといって日本が吉田政権になった理由を説明できるわけではない。アメリカは日本の政治からは手を引いてしまうからだ。つまり、アメリカは民政局の過度の関与がなくなっただけで、日本の有権者が望めば引き続きリベラル政権が存続していたはずなのだ。ところが、有権者は一度は社会党を支持するが経済混乱は収まらず有権者は中道路線に飽きてしまう。最終的に議会が選んだのは吉田政権だった。第二次吉田内閣は民自党(のちに自由党)の単独政権だった。つまりGHQの態度変容が日本の政治を変質させたわけではない。もともとあった理想主義的な流れが取り除かれただけなのである。
吉田政権のもとで下野した社会党はこの時から迷走を始める。もともとGHQはアメリカ民主党的な社会民主主義路線は容認していたが共産化につながる過激な運動には警戒をしていた。つまり日本の社会主義者とアメリカの社会主義者にはズレがある。そのズレからはみ出した人たちが「左派」と呼ばれていた。
左派は政権からも排除され党内野党を形成する。閣外に出たことでこの対立が表面化し「大衆路線」か「階級闘争路線」かでもめたようだ。この間を取る形で大衆階級路線という理屈が考え出される。つまり中間層は遅れた階層であり、啓蒙・解放されるべき階層であるという「上から目線」の理屈を作って内向きに混乱を収めたのだ。
こののち、逆コースをたどる保守はそのうち日本を再び戦争(つまり第二次世界大戦のような戦争)に導くぞというような思い込みに支配されることになる。朝鮮戦争は現実的な危機だったのでこれが一定の説得力を持ち、安保闘争でも一定の成果をあげる。
その後は「自分たちも参加して作った憲法によって得られた平和を維持するためになんとしてでも改憲を阻止しなければならない」という護憲路線をとるようになる。一方で政権に関与することがなくなったので「極端に理想主義的な平和主義」と「大衆が社会党を選ばないのは啓蒙されていないからであろう」と独自の世界観を形成してゆく。左傾化というより浮世離れしてしまったのだ。
その後も現実路線と理想主義の間を揺れ続け村山政権が誕生するまで政権を取ることはなかった。そして現実に政権に関わったことで瓦解した。村山首相は左派だったので、左派による中道化(左派から見れば右傾化だろうが)というわけのわからない状態になり、左派も右派も離反してしまったのである。
1955年体制の社会党は自民党政治の不信任の度合いを示すバロメータにはなったが政権を期待されたことは一度もなかった。日本人は「リベラルな政治」を信じない。社会党は「既存政治へのブレーキ」としてしか機能してこなかったのだ。ブレーキはやがて磨耗し今歴史から消えつつある。だが皮肉なことに民主党系の野党に残っていてあまり意味のない軋轢を作り出している。
占領下で社会党政権をつぶしたのは有権者だった。だがそのあともブレーキとして利用され続けており、今も民主党各政党で「絶対に与党には協力しない」というブレーキの役割を果たしている。しかしブレーキとしてのみ存在しているうちに現実対処能力を失い政権奪取をきっかけになんども崩壊を辿る運命を背負わされてしまっているのである。