櫻井充参議院議員の質問を1時間ほど聞いた。国民民主党・新緑風会の質問時間だった。安心して聞けた。
安心して聞けた理由は簡単だ。櫻井議員は「児童虐待」の問題から科学技術予算といった幅広い問題を質問していたのだが、どれも現場の声に従った具体的な提案だったからだ。さすが良識の府である参議院と思わせるものだった。なぜこんなことができるのだろうかと思ったのだが「この前診断書を書いた」と言っていたので、未だに医師としての活動をしているらしい。つまり、現実社会との接点があるのだ。
職業政治家は現実との接点を失ってしまうので、どうしても普通の国民の耳目を集めるために何らかのパフォーマンスに走らざるをえない。不毛なビジョンや計画のオンパレードがあり、それを過剰に褒めて利益配分にあずかろうとする下手なテレビショッピングのMCのような政治家が現れたり、逆に何か不具合を見つける「院内活動家」に変わってしまうのであろう。午後には自由党の森ゆうこ議員が質問に立っていたが聞くに堪えないものだった。著作権の問題については最終的に「自民党でしっかり検討してください」と投げやりになり、委員会で失笑されていた。
前回のCOBOLの話でも思ったのだが、日本人は自分のドメインについてはとても強い。中長期的なビジョンも立てられるし問題点もきちんと把握している人が多いのである。参議院では維新の藤巻健史議員なども質問自体は安心して聞くことができる。日本はスペシャリストと職人の国だ。
ところが、イデオロギーや全体の傾向というような枠組みの変更が絡む話になると途端にパースペクティブが失われ議論が明後日の方向に向かってしまう。つまり、日本はジェネラリストがいないし育てられないという致命的な欠陥を抱えている。
本来政治家はビジョンを示し専門家をまとめるべきなので、政治にはビジョンを持ったジェネラリストが必要である。だが、そんな人はほとんど出てこない。であればそれを認めて、せめて参議院だけでもいいからスペシャリストの議会にして欲しいと思う。参議院の政治家は全て兼業にしてもらえれば、森さんのような院内活動家は減り、まともで緊張感のある議論が生まれるだろう。
普段から「日本の問題」についてあれこれ上から目線で語っているわけだが、スペシャリストや職人に関しては文句のつけようがない。だが、現行の制度だと「政党」に別れなければならないので、どうしても所属政党のイデオロギーや方針に引っ張られることになる。櫻井さんも専門外の出口戦略について質問をさせられていた。政党というものをなくしてしまわないと「本当に良識がある人たちだけが集まる」ということができないのかもしれない。特に集団での勝負に熱中してしまう傾向のある日本人にとって政党にはデメリットが多い。
舟山議員という人が櫻井さんに続いて質問をしていた。が、専門的知見がない(農林水産省の官僚出身のようだが農業そのものは知らないのだろう)ので専門的質問ができず、いつものように日米FTAの問題について「茂木大臣のやり方はおかしいし、内閣の政策の決め方は気に入らない」というようなことを言って噛み付いていた。そんな話は居酒屋でするべきで、議会ではもっとちゃんとした質問をして欲しい。櫻井さんは普段見ている「なかなか対処してもらえない現実の問題」について語れるのだが、官僚出身の舟山さんは問題を作り出そうと躍起になってしまうのである。つまりスペシャリティのなさが「院内活動家」や官僚をいじめるショーマンを作り出してしまうのだろう。
もちろん、専門家のみだと「業界内の常識」がパラダイムを縛ってしまうという問題もある。例えば、厚生労働省の統計問題を取ると、統計のために紙で情報を集めそれを一括して中央で一括処理するという古いパラダイムのままでは問題の根本は解決されないし、専門家に聞いても問題点は掘り起こせないだろう。専門家が慣れ親しんだ考え方に基づくのは当たり前のことなので、これに疑問を呈するような人たちが一定数いる必要がある。衆議院の存在意義は多分そこにある。ジェネラリストとスペシャリストの両方が必要なのだ。
もちろん安倍政権にもビジョンはあるのだが、そのビジョンはどこかいびつな形をしている。安倍首相は党内で数センチ浮いている(あるいはお友達に担がれて足が地面についていない)のでビジョンが作れない。もともと日本の議院内閣制は、それぞれの議員のアンテナに引っかかってきたものをボトムアップで上げて行き、議員の中から選ばれた代表者である総理大臣がまとめるという思想で作られていると思う。実はアドミニストレーション(行政)と議会の間にはチェック関係はないのだ。
この合意形成型の議会のあり方は我々が習ってきた「議会を行政府がチェックする」という思想とは異なっている。チェックアンドバランスは議会と大統領が別の選挙によって選ばれる二元代表制の考え方である。現在の議会制度は「戦前を踏襲しアメリカが改良した」ものなので日本の社会習慣には合っていない。その証拠に日本の政党は「国民から信任を失う」ことに心理的に耐えられない。穏やかな合議制の国なので否定されることに慣れていないからである。
今回は二つの事例を挙げて「文化的な違い」について考えた。こうした文化的な違いを織り込まずに「政党同士がコンペを行う」という小選挙区制度を導入してしまったせいで、政党の力ばかりが強くなった。その結果議員がボトムアップで政策を上げてゆくという本来的なあり方が取れなくなった。政党幹部に公認権を握られた立法府が官邸の追認機関になってしまったのである。その結果、我々が見せられているのはビジョンを作る能力のない官邸が大統領府のように暴走し、それを専門性のないショーマンや院内活動家が破壊するという考えうる限り最悪の議会のあり方なのである。
厚生労働省の受動攻撃(説明責任のサボタージュ)も政党間の争いに巻き込まれて、現実的な対応はしてもらえず、さらに伏魔殿呼ばわりされてしまうという被害に巻き込まれた結果なのだろう。このままでは行政府は本来の働きができないままなのではないだろうか。
ここから理想の形を仮まとめすると、まず衆議院がボトムアップで吸い上げてきた問題をパラダイムの転換ができるビジョンを持った複数のリーダーが吸い上げて政策を作り、それを政党とは関係がない専門家の集まった参議院で再検討してもらうという形にしたほうがよさそうである。そのためには対立姿勢に陥らない政党が複数連立を組んだほうがいい。金権政治を克服できなかった自民党をみればわかるように一党独裁は必ず腐敗が起こるし、現在の与党対野党対立が起こる小選挙区制度では議会が不毛な運動会になってしまう。
これまで憲法や選挙制度はいたずらに変えないほうがいいのではないかと考えてきた。しかし、こうした不毛な議会と壊れつつある行政組織の問題を見ていると、今の政党ベースの議会というのはあまりに問題点が多すぎるのかなと思えてしまう。本来保守と呼ばれる人たちは「日本人がどのような思考形式にしたがってきたか」という知見を持ち、それを現実的な提案に置き換えられる人たちなのだろうと思うのだが、日本中のどこを探してもそんな人たちは見つかりそうもない。政治のインサイダーから早くそういう人が現れて、議会制度改革をしてくれないかと思う。外から見ていると問題はかなり明白なように思える。