しばらくぶりにTwitterをみていて「野党がだらしないから安倍政権が続いている」というコメントに怒っている人がたくさんいた。これについて考えたい。
さて、この野党がだらしないことについて、今回は3つの原因を考えてみた。これが変えられれば「確かな政党」が作れると思う。
- 野党が経済政策を出せないこと。
- 有権者の政治への関心が薄いこと。
- 継続的な政治活動ができる母体が作れないこと。
1つ目の原因は「野党が経済政策を出せない」ということである。これは田原総一郎さんが朝生で主張しており大塚耕平議員がうつむいて聞いていた。ちなみに大塚さんは日銀の出身で経済がわかる。
野党の中にも経済政策ができる人がいる。前回「正解」の話をしたとき、日本人は正解を導くフレームワークが作れないと書いたが、枝野さんは予算委員会の質問で、中間所得層が減っていることを統計から導き出し「これが問題である」と言っていた。つまり、枝野さんも正解が作れる人なのである。大塚さんも枝野さんもそれができるのだが、なぜかそれが全体に広がって行かない。なのでそれをそのまま内閣にぶつけるしかないわけだが、安倍首相と麻生副首相にはもう経済政策には興味がない。枝野さんの質問に紙をひらひらさせながら「その質問いつ終わるの?」という表情だった。
まだ政権運営をしたことがない茂木さんと河野さんはそれなりに真面目に聞いていたので、この首相経験者二人には「思っている通りには行かない」という深い諦念があるのだろう。つまり、問題はアイディアではなく周囲を巻き込んでアイディアを展開するリーダーシップなのだが、安倍さん、麻生さん、枝野さんには官僚どころか自党の政治家たちにアイディアを広げてゆくだけの力がないようだ。
このリーダーシップのなさにも「正解マインド」が関係してくる。枝野さんが対抗策として経済政策を打ち出したとする。これを野党政治家はいったん「安倍首相に勝てる」として受け入れるだろう。しかし、それを実行する段階になって後から「いやそれは都合が悪い」と言い出すに決まっている。彼らは正解は暗記できるがそこに行き着く過程には興味がないので、各論で反対し始めるのである。こうして改革は内側から潰されるのだ。
我々は自分を除く有権者はバカだと思いたがる。確かに経済政策の理解は十分ではないと思うのだが、かといって「自分たちの損得勘定ができない」とも思わない。つまり、自分たちの生活のスコープについてはきちんと判断ができているのではないかと思う。民主党政権3年の失敗を見て「どうせ変化をしても混乱するだけ」ということもわかっている。だったら動かなくなるまで放置しておこうと思うのが有権者側から見た精一杯合理的な対応だということになるだろう。こちらは正解がないから放置しているということになる。これが野党がだらしない第二の原因である。やってみて何も変えられなかったと諦めて嘘に走った政権の裏には、どうせ政治家には何もできないという国民の諦めがある。民主党はテレビ政党なので「視聴率が悪い政策」は受け入れないのである。支持率が悪くてもやがて理解されるだろうなどとは思わないのだ。
このため、野党には「政治に自分たちのルサンチマンをぶつける対象にしたい」という人たちだけが引きつけられる。彼らを外から見て「安倍打倒を訴えている人たちは本当は何がやりたいのだろう」と考える人もいるようだが、ルサンチマンにとりつかれた人たちにはそんな声はもう届かないだろう。
支持者たちが自分たちの内心を初めて爆発させているという様子がわかるつぶやきが定期的に流れてくる。「安倍打倒のシュプレヒコールをあげて私は本当はこれが言いたかったんだ!と涙が出た」という人たちがいるのである。内心というものを持たずに(正確には持っているがそれに気がつかずに)大人になった人たちが憎悪に導かれて初めてそれを解放した瞬間だ。
内心を個人にぶつけると嫉妬の感情としか見られないのだが、社会正義に彩られると「大義」を持つ。つまり、個人がやっとの思いで解放した内心は解放された瞬間に集団的な正義に食われてしまうのだ。いったん内心が噴出すると今までしつけられてきていなかった分だけ暴走するというのはユングの中年の危機さながらの話である。つまり多くの日本人にとって内心の発露は暴れ馬さながらの劣等機能であり、日本勢たいが中年の危機に苛まれているとさえ言える。
このため枝野さんたちが建設的な議論をしたくても、有権者はついてこない。有権者たちが求めているのは現状維持かあるいは暴走した内心に彩られた破壊衝動である。野党はこの「壊してしまえ」という衝動を持った人たちを引きつけておくために次から次へと新しい疑惑を解明しなければならない。幸か不幸か「何もできなかったしそもそも何もやりたいことがなかった」今の政権には暴走した内心の餌になるものがたくさんあるのだ。
これが最後のだらしなさにつながる。民主党は意見がまとめられず支持も得られないために分裂してしまった。この時、地元の事務所には連絡がこなくなり、今でも地方議会はバラバラのままである。2009年から継続的に応援し望みをつないできた人たちは分裂騒ぎの時に「ああ、自分たちのことはどうでもよかったんだ」ということに気がついたはずだ。この状態は今でも変わっていない。継続的にボランティア活動や寄付などをして野党を支えようという人たちもいたはずだが、彼らがいくら頑張っても野党は答えてくれない。2009年に民主党を応援した人たちはなんども裏切られている。消費税を上げなくていいという嘘に騙され、野党になってもみんなのことは忘れないといった嘘にも騙された。
民主党はマニフェストの粗末な扱いを通して「日本には政策ベースの政治は根付かない」という正解を作ってしまった。今度は「野党を継続的に応援しても何の成果も得られない」という正解を作った。だから、政党を応援する理由は2つしかない。利権の誘導を狙う人と暴れ馬になった内心をぶつける人だけが飽きずに政治を見つづけることができるのである。
立憲民主党はかなり難しい立場にあると思う。運動を盛り上げようとすると与党批判を繰り返す必要があるのだが、これはやがて左派ポピュリズムに行き着く。左派ポピュリズムというのは、矛盾と憎悪の原因を既得権益者に向けつつ、財政の安定を考慮せずとりあえずばらまくというやり方である。構造化された支持母体がないので利益分配のためにはとにかくバラマキをやらざるをえない。そして憎悪は破壊にしかつながらないので資本主義は内側から崩壊する。
残る道は非常に狭い。経済がわかる人たちが集まって「これが正解だ」という経済政策を調査から含めてやりなおさなければならない。なぜ調査からやり直すかというと政府統計が信頼できないからだ。国家機関から「正解」というお墨付きは得られないので、心あるジャーナリスト(本当にそんな人たちがいるかは疑問だが)を集めて信頼性の確保も自分たちでやらなければならない。左派ポピュリズム的な人気維持策をやりながら、裏で経済政策を作り、それが理解できるリテラシーがあるひとたちをリクルートしてきて議員や広報舞台として育成もしなければならない。こんなことが現実的にできる見込みは少ないが、それしか道が残されていないように思える。
政治の話題を含めたブログを書いていると「安倍批判をしないとページビューが下がって行く」ということに容易に気がつく。「日本人は<本質>を理解できていない」などと個人的には立腹しているのだが、冷静に考えてみると「アテンションを維持するためにはエンターティンメント要素も必要で、なおかつそれに振り回されすぎてはいけない」ということなのではないかと思う。つまり多くの人にとって<本質>とは政治家を叩くことなのである。
狭き門より入れなどと説教しても誰もついてこない。だが、世の中を変えたいなら自分たちだけは狭き門をくぐらなければならない。