ざっくり解説 時々深掘り

日本の政治は何が動かしているのか

ふと、自民党はどのような歴史から生まれ、どのように劣化してきたのか都いうことを考えてみた。改めて説明しようとしてもできなかったので、歴史を遡って調べてみることにする。そこで見つけたのは「日本の政治的対立は全て吉田と鳩山の対立で説明できる」という話である。

やってみると憲法改正もこれで説明ができることがわかった。そして、実は立憲民主党も国民民主党もその線で説明ができてしまうのである。つまり日本の戦後政治史は全て村の派閥争いの歴史なのだ。

日本自由党系

保守政党がまとまりを見せた時、最初に担がれたのは鳩山一郎(1946年に公職追放)だったが、突然1946年に公職追放されてしまう。不在の間を託されたのが官僚出身で親英米派の吉田茂だった。当初「預かっているだけ」だったのだが政権を運営するうちに政治が面白くなったようで、鳩山が公職に復帰した時に政権を戻さなかった。そればかりか、鳩山不在の間にアメリカと結んで憲法を制定し、官僚を政治に招き入れて吉田学校という派閥を作った。麻生太郎は吉田の外孫にあたる。このGHQの行き当たりばったりの戦犯指定がやがて政治史を混乱させることになる。

鳩山と吉田の対立がしこりになり、1955年に自民党が保守合同したのちにも憲法の正当性に対して異議を唱える人たちが残った。社会党が合同したので保守が分裂していてはまずいというのが保守合同の理由なのだが、それでも鳩山派の怒りは収まらなかったというこということになる。

吉田系は官僚系の系統だったが、岸信介の弟である佐藤栄作の後継となった高菜角栄の時代に変質した。貴族的で党内の派閥争いにあまり興味のない官僚出身者と違って高等教育を受けていない田中角栄は官僚を操縦し日本列島改造を訴えて地方への分配政策を始める。この政策は成功したものの「金権政治」が止められなくなり、最終的には国民の反感を買い自民党は単独で政権が取れなくなった。

吉田の派閥は池田勇人に引き継がれ宏池会が作られた。宏池会からは大平、鈴木、宮澤の首相と河野洋平・谷垣禎一の2名の野党時代の総裁が出たが、加藤の乱で影響力を失った。もう一つは佐藤栄作派閥で、そこから独立する形で田中角栄の派閥が作られた。小沢一郎は田中の流れを汲んでいる。

保守本流は政策提言に自信があるのかあまり外に支持を求めるようなことはしない。本流に乗れない人たちが派閥内派閥を作り外に出るということが何度か繰り返されている。最終的に彼らは自民党から出ることになる。

壊し屋いっちゃん

貴族化した政治家たちは自民党に残ったが、党内では支持が得られなかった小沢は「二大政党制」を主張するようになった。小沢は一度大臣を経験したが政党の役職を好む政治家だった。言い換えれば政策より政局が好きな人だったのである。

小沢は竹下派で竹下首相を支え、細川護煕に接近したり、公明党(細川政権から与党になった)に政権参画を持ちかけるなどと政界工作に明け暮れた。のちに新生党を作って羽田内閣を成立させた。自自・自自公政権では政権の一角をなしたが、小沢の自民党への復党は許されず政権を離脱した。

このころまでは諸派が乱立する政権交代が起きていたが、政党交付金(1994年成立)小選挙区比例代表制(1996年導入)ができて党本部の力が強くなったころから政党が整理され始める。これらの制度は国民のためというよりも収拾がつかなくなった派閥争いを沈静化させるという意味合いを持っている。党本部の力が強まると政策論争そのものが次第になされなくなった。

小沢は次に鳩山由紀夫と菅直人らが作った民主党に接近し最終的には政権交代を成し遂げた。しかし、実務能力のない鳩山由紀夫が政権を維持できず、民主党政権自体も3年で崩壊した。政界再編を繰り返すうちに勢力を減らし最終的には山本太郎と組むようになった。皮肉にも自分たちが主導して作った制度で諸派として淘汰されてしまったのである。

日本民主党系

一方、一度は保守系政党のまとめ役を期待された鳩山一郎は公職を追放され、その間に吉田派が新しい憲法を作り政党を官僚中心に変えてしまっていた。これに腹を立てた人たちが作ったのが日本民主党だった。民主党を作った鳩山由紀夫と自民党の安倍晋三がこの人たちの末裔になる。

鳩山一郎(鳩山由紀夫・鳩山邦夫は孫)・河野一郎(河野太郎は孫だが政治的な継続性はなく、二代目の河野洋平は一度新自由クラブを作って外に出ている)・岸信介(安倍晋三は外孫)この3名が政党を作り、1955年の自由民主党結成ののちには吉田に対抗するグループを作った。彼らは日本自由党・吉田学校から保守傍流と呼ばれたが、鳩山一派から見れば吉田茂らのグループの方が官僚出身の新参者である。反吉田路線なので親米を基調としながら憲法改正論を唱えるという特徴があるそうだ。

清和会は大蔵省官僚出身の福田赳夫が設立したものだ。福田は官僚出身だが吉田・池田の流れを汲まず、岸信介、鳩山一郎派閥だった。田中角栄との勢力争いを繰り広げたが、福田赳夫以外の総理大臣は出せず長らく反主流派だった。

この流れを変えたのがテレビ的な政治手法に長けた小泉純一郎だ。自民党をぶっ潰すとしてわざと急進的な郵政選挙を仕掛けて党内反対者を「造反者」と名指しし刺客を立てて潰した。小沢一郎は裏から派閥を操ろうとしたのだが、小泉は表に出て役者として派閥を潰すのが好きだったと言える。

ただ、小泉路線は小泉純一郎の個人の人気に支えられていたためにそのあとが続かなかった。次の役者を育てずにそのままやめてしまったからだ。そのあと保守傍流のプリンスである安倍晋三(岸信介外孫)と福田康夫(福田赳夫子))に政権を引き継いだがいずれも政権を維持できなかった。いったん主流派の吉田茂の外孫(麻生太郎)が政権を担ったがこちらはもっとひどかった。麻生は「漢字が読めない」などの理由から人気が出ず党内で麻生降ろしが起きて自民党は政権を失った。しかし、その政権を奪還したのも実は鳩山一郎の流れを汲む鳩山由紀夫だったのである。当初鳩山由紀夫は憲法改正を主張していた。つまり民主党は改憲政党だったのだ。

安倍政権は一度つまづいたのち、より強硬な政治姿勢と手法を身につけ政権に復帰した。安倍政治手法は官邸主導を徹底させて自派閥を増やし、なおかつ主流派を人事で掌握するというものだった。党の権力が強くなり政策論争ができなくなっていたのに加え、党内でも政策論争ができなくなった。現在の選挙制度では二大政党から公認が得られなれば国会議員にはなれないからだ。二大政党どころか野党第1党すら政党が維持できない。政治家になりたい人より政府のポストが欲しい人が多いからだろう。

「あいつらが気に入らない」という村の怨念が世代を超えて唯一のドライバーになっている

大多数の日本人は、アメリカの庇護のもとこれまで通りの生活が続いて欲しいが、アメリカの戦争には巻き込まれたくないという漠然とした希望を持っている。また、地方への分配も行われている上に社会構造が比較的平等なため、地方と都市とか、お金持ちと庶民という対立もない。さらに国民はあまり人権や環境に興味がないのでヨーロッパ型の緑の党のような政党も出てこない。このため本質的には政権交代が起こるような素地がない。

世襲意識も強い。鳩山が主流派になれなかった恨みは、孫の代で民主党設立に結実した。鳩山家と石橋家(ブリジストンの創業家)からの財産を受け継いでおり資金は潤沢にある。一方、岸信介の恨みも孫の代にまで波及しており憲法改正が怨念のように安倍家の課題になっている。

例えば憲法というと国の根幹に関わるようにも思えるのだが、おおもとは「吉田茂が勝手に決めたからけしからん」というような動機に基づいて画策されている。

ところがいざ憲法を改正しようとすると何が自主なのかよくわからない。そこまではおじいちゃんから聞いていないからだろう。日本独自でというのはつまり「俺たちが決めたい」ということなのだが、それを認めたくないので日本民族の独自性というような話に持って行く。

しかし、異民族と接したことがない日本人は何が独自なのかよくわからないわけである。世襲の間に母親の影響を受けて話が歪んでしまっており、当人たちが自分たちで何がしたいのかがよくわからなくなってしまっている。こうなるともはやイデオロギーの話とはいえず、あえて言えば前世からの因縁と言ったほうがわかりやすい。

よく永田町は村だというような言い方をするのだが、これは比喩でもなんでもない。1946年にあった村の有力者同士が約束を違えたことが未だにイデオロギーを超える対立の原因になっている。広い意味では立憲民主党も国民民主党もその枠内にいるといえるのである。

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