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アレクサンダーテクニークで全体像を取り戻す

アレクサンダーテクニークに関する本を読んだ。もともとはオーストラリアの俳優であるアレクサンダーさんという人が舞台で声が出なくなるという不調を克服するために考えたメソッドである。主に芸術の分野で使われている。緊張でパフォーマンスが制限されるというのが、基本的な考え方である。

今回は築地豊洲の問題を題材にして「政治が全体を認識できていない」という問題を考えている。日本では公共や社会が崩壊しているかそもそもなかった。これが様々な緊張を引き起こしていると考えている。

個別の問題を解決するために、個々の課題に耳を傾けるというのが典型的な政治議論のやり方だ。しかし、このアプローチだと特定の条件(情報が豊富にあり、なおかつ全体性が損なわれている)のもとでは二極化が起こり議論が死んでしまうのではないかと考えた。現在できている政権と野党の関係がそれにあたる。演算の結果なので、イデオロギー的な統一性はなく、さらに経済の実態も反映していない。表向きは盛んに情報が交わされているがアウトプットはない。

現在国政はすでにそのような状況に陥っている。一方、築地・豊洲の問題はその過程にあるのではないかと考えている。築地という箱があったので、曲がりなりにも村が形成されていた。しかし、これがなくなると新しい村を形成することができない。政治が全体像を持っておらず、社会もまたそれを再構成できない。すると二極化された死に落ちてゆき、多くの問題と同じように延々と議論が繰り返されることになる。その傍で伝統の魚食文化は衰退していってしまうのだ。

日本人はこうした対立には耐えられない。前回二極化が起きた時には軍部の暴走と大政翼賛会という現象が起こり、最終的には日本の政治は破局した。日本には強力なリーダーシップが働かないので最終的には集団思考によって問題の先送りが起こるのである。これが現在の日本で起きているのか、そうでないのかという点には議論の余地があるだろう。

政治議論が無効だと仮定しているのだから、別のアプローチを見つける必要がある。西洋医学がダメなら東洋医学でというような具合である。それが「全体性」だ。日本人は公共という感覚を持っていない。この感覚を得るためにはどうしたら良いのかということになる。有り体な日本語でいうと「バラバラになったみんなの気持ちを一つにするにはどうしたらいいのか」という曖昧で道徳的な議論である。

これまで「公共」というアプローチで議論を展開しようとしてきたが、あまりうまくゆかなかった。日本には公共という欧米社会では当たり前の概念がないので、「出羽守だ」と冷笑されるか、それぞれが好き勝手に夢想を始める。これが結果的には政治家たちが公共を私物化できる温床になっている。誰も知らないのだから、どうとでも解釈できてしまううえに「大きな目的のために個人が犠牲になるのだ」と言われるとなんとなく否定しにくい。

しかし、政治だけを見つめていてもこの問題は解けそうにない。そこで全く別のところからアプロチを探そうと、体の動きを学習する仕組みについての本を探し出した。そこで見つけたのがアレクサンダーテクニークである。

人間には思い込みによる体の使い方の癖がある。この癖のせいで局所に緊張が起こりそれが痛みの原因になる。たとえば腰痛のある人は間違った癖のために常に腰を緊張させている。腰の筋肉を鍛えたり、痛み止めを打ったりするのが従来の医療だ。ここで、局所ではなく全体に注目するのがアレクサンダーテクニークの特徴である。具体的には教師の指導のもとで間違った認識を改めてゆく。自然な動きをすれば体は自律的に調整されるであろうという全体への信頼が前提にある。同じように、我々の社会(日本式の集団意思決定とか資本主義や民主主義などの仕組み)は長い歴史を耐え抜いてきたのだから、それなりの自律装置が備わっているのであろうという信頼がなければ、この仮説は崩壊する。

アレクサンダーテクニークは、体に対して我々は意外と間違った認識を持っていると主張する。頭の重心線は耳のあたりにあり、頭が動くと体が従うようにできているという。これらを意識すると頭の動きが安定するが、これがわからなかったり間違った点を重心だと認識していると体全体に無理が出る。

また、腕には関節が4つあるという。手首、肘、肩まではわかるが、もう一つは大胸筋で動かす鎖骨の付け根である。そう言われて観察してみたところ肩が前に来すぎているのがわかった。これを巻き肩というのだが、逆に巻き肩を治そうとすると胸を張りすぎてしまう。腕や胸がどうなっているのかがわからないと正しい位置がわからなくなってしまうのだ。しかし、体を観察すると本来の構造が分かる。すると、それをどう使えば良いのかを考えることになる。これを教師と一緒に解決してゆくのが、アレクサンダーテクニークの基本的なアプローチだ。

思い込みは時には深刻な歪みを引き起こす。

最近Bluetooth内臓のAppleキーボードの調子がおかしい。そこで昔使っていたメカニカルキーボードを取り出して使っている。昔は問題なく使えていたのだが、今は硬すぎて使えない。もしかしたら老化して腕の力が落ちたのかもしれないと思っていた。特に右手側が押しにくくとても疲れる。今回アレクサンダーテクニークの本を読んだので改めて観察したところ、斜めに座っていることがわかった。体に対して左15度くらいのところにキーボードを斜めにおいて使うのが「正しい位置」になってしまっている。体が歪んでいるのだから左右対称の使い方ができない。だから右手がまっすぐになっておらず右側のキーがことさら押しにくかったのである。

そう思って見ていると、顔の左側にだけ不自然なほうれい線が残っていたり、左ふくらはぎだけが時々攣る理由がわかったように思う。鏡の前でわざとだらしなく立ってみると左脇を硬くしてだらしない格好を作っている。つまり、全体が歪んだ姿勢が正しい位置になっているのである。これを改めて意識し直すことで全体の「認識」を書き換えてゆく。だが、そのためにはまず歪みそのものをありのままにみる必要がある。キーボードの位置は再調整したのだが、今でも昔の癖は抜け切れていないので、無性に脚が組みたくなる。

体の場合は歪みだし政治の場合には政治的思い込みということになるだろう。例えば自民党が「天賦人権は日本人にはふさわしくない」という憲法観を考え出した時、彼らは政権から脱落していた。つまり、彼らの組織に何らかの歪みが生じており、これまでのようにメッセージが国民に伝わらなくなっていた。しかし、彼らはその通路を再点検しないで別の理由を考え出した。それが「国民がわがままだから」という理屈である。だからそのわがままの原因を取り上げてしまえば「再び自分たちのいうことを聞くようになるだろう」と考えたのである。ところがそれを見た共産党系の人たちが「自民党は再びあの戦争をやろうとしている」と言いだしたので話がややこしくなった。これも共産党が長年刷り込んできたお話である。このため議論は二極化し死んでしまった。

この認識を「マッピング」と呼ぶ。ダンスやポージングを美しく見せるためには正しいマッピングが重要であると考えられる。同じように政治的主張を伝えるためにはそれなりのマッピングがあるはずである。自民党の場合、意思伝達をしていたルートは三つあったと仮説できる。一つは通産省が大企業をまとめる「護送船団」だ。中曽根康弘はオイルショックの時に手計算で石油資源を割り振ったという。つまり、手計算でできるくらいの産業規模だったということになる。次は自民党がまとめていた中小企業の利権共同体である。最後にここから集めた収益を地方に分配することで国民の支持を得ていた。最後に配分に使ったのが地方への公共事業と年金である。これが崩れたことで自民党は支持を失った。通産省は国際化複雑化した産業の全体像を把握できなくなり、利権共同体は派閥闘争の結果潰された。税収が落ち込み開発もあらかた終わったので公共事業が続けられなくなり、年金は持続可能性が疑われるようになった。

現在、消費税で全体像を失った議論が起きている。もともと、消費税の議論は大蔵省が「高齢化に備えて直接税の割合を増やしたい」という意図で始まったものと思われる。だが、それは高齢者から税金を取るということを意味しているので、政治家は高齢者を説得するのに「社会保障に使う」と嘘をついた。細川内閣ですでに「国民福祉税」という名前が付いているので、この嘘はかなり古いものであると考えられる。さらに安倍政権ではお友達の産業界に配るために法人税を減税するための財源として消費税を使っているようである。

この議論は更に複雑さを増している。高齢者重視だという批判が出ると、教育にもお金を回すという約束が示された。そしてその約束を守るためにはさらなる消費税の増税が必要だとなっている。では、教育の無償化をするから消費税をあげさせてくれと選挙で言っていたらどうなっていただろうか。多分自民党はこれほど支持されなかったはずである。

さらに、公明党が軽減税率を言いだしたために話が複雑になる。しかし事務処理や設備投資が必要なインボイスは使いたくないという。これだと割り戻しもできないので、履歴の残るクレジットカードを使ったポイントシステムにしてはどうかという小手先のアイディアが出た。これなら政府も小口事業者も設備投資はいらない。だが、公明党の支持者たちはそもそもクレジットカードを処理するレジも買えず、クレジットカードの手数料も負担できないという点が見逃されていた。そこでクレジットカード会社に手数料を負けろという指令を出そうかという議論になっている。公明党からはそれも面倒なので商品券を配ったらいいのではというアイディアが出ている。すると、一度取ったものをばらまくなら最初から取らなければいいではないかとして、パッチワーク化した議論が同じところをぐるぐると回る。

もちろん、全体像や通路ばかりを見つめても答えは見えない。ただ、全体像を共有することで少なくとも今よりマシな議論はできるようになるだろう。政治的課題を分析する場合には、政治的課題への即答がないと議論をしても意味がないように思える。例えば、築地や豊洲の場合「今どうするか」という差し迫った問題がある。痛み止めは必要だし、傷んだ部分は治療する必要がある。つまり西洋医学が効果をあげていないからといってこれをやめることはできない。しかし、それだけで問題を解決することはできない。全体像が失われてしまっているからである。

結局、長々と議論しても、全体と細部を交互に見ていろいろ考えるべきだという当たり前の結論にしかならないので、がっかりした人も多いのではないかと思う。だが、全体像がないなかで議論を続けても多分何の答えも得られないだろう。一度、立ち止まって別の視点を探す必要があるのではないだろうか。

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