今回は築地豊洲問題の本質について考える。到達したい点はホリスティックシステムとしての都市といういささか面倒な課題だ。
前回までの数回で立ち方とか笑い方について書いたので購読者が減った。これはいい傾向だと思う。日本の政治議論は自分の正義を他者に押し付けたり問題を他人のせいにするために使われることが多い。こうした<政治議論>好きの人たちは「悪口が書かれていない」と読むのをやめてしまう傾向があるように思える。結論が先に決まってしまっていて、議論が入り込む余地がないので、観察対象としては面白いが議論の相手としてはつまらない。では、彼らの議論が面白くならないのかという疑問がある。この議論がすでに終局しているかという答えが考えられる。
現在のこの状況を「政治の二極化」などいうことがある。一つのシステムに関していくつかの見方があるのだが、それが情報過多の環境に置かれると最終的に二極に収斂するという状態である。なぜ二極化するのかは実はよくわからないが、最終的に正面衝突する二つの価値観が生き残る。日本ではネトウヨと左翼などと呼ばれるし、アメリカでもリベラルとオルトライトという二極化が観察できるという具合である。二極化は相としては死である。その対局が多極的で多様な状態である。
築地の議論はその途上にある。まだペンディングの情報が多く、完全には二極化しきっていない状態である。問題を全く認めない体制派の人たちや明確な反対派も多いが、なかにはなんとなく状況がわかりながらも今日1日を精一杯生きてゆこうという人たちもいる。こういう迷っている人たちのTweetをみると心が痛む。こうした人たちが社会の活力を生むのだからもっとも政治を必要としており、また公共に貢献する人たちだからだ。
もう一つの築地お特徴は議論の重層性である。Twitterで「失敗の本質はお客のいうことを聞かずにスペックを決めたのがいけないのだ」というつぶやきを見た。豊洲を冷蔵庫に見立てて設計が失敗しているというのである。確かに一面の真実なのだが、ではなぜ豊洲に市場を移築するにあたり冷蔵庫としての倉庫を設計した人たちが業者のいうことを聞かなかったのかについては思考が及ばないようだ。
実際の議論は都政の経営問題が重なっていて複雑になっている。もともとは臨海の土地開発の失敗を市場の余剰金で手当てしてしまったことが問題の発端だ。臨海都市開発の問題は単独で処理すべきだったが新銀行東京が破綻した穴埋め(日経新聞)を議会に諮る必要があり、他の失敗までは言い出せなかった。そこで、築地の金で臨海都市開発の穴埋めをしたという観測もある。
冷蔵庫の問題はこれとは異なる。これは「製造業の失敗」と呼べる問題である。豊洲市場は巨大な冷蔵庫だと言える。だが、「そんな冷蔵庫が欲しい人はいなかったのではないか」という仮説が浮かぶ。日本の製造業には成長という呪われたDNAがありこれが暴走しているのである。例えば日本が誇るべき家電の代表選手だったテレビも8K化などが進み「恐竜」になった。家庭用テレビで8Kを望んでいる人はおそらくいないのだろうが、それでもメーカーは差別化のために性能を強化してゆかなければならない。業務用流通機器にも同じようなことが起こっているのではないだろうか。
豊洲新市場は基本的には密閉型のコンピュータ冷蔵庫である。物流はITで管理することになっているようだ。小池都知事が「ユビキタスなコールドチェーン」と得意げに宣言していたことからそれがわかる。(Logistics Today)
小池氏は、豊洲市場が持つ冷凍冷蔵・加工などの機能を強化し「ITを活用するユビキタス社会の物流、総合物流拠点となる中央卸売市場」として活用する考えを示し、問題となっていた地下水の汚染については専門家会議が指摘した管理システムを柱とする安全対策を講じた上で「豊洲市場を活かすべき」と述べた。
なぜそのようなものを作ろうとしたのかについての報道は実は一切ないし小池さんの思いつきかもしれないのだが、誰かコンセプトを吹き込んだ人がいるはずである。メーカーは公費を使ってパイロットプロジェクトを作りたい。すでに経営としても失敗しているのにその上にもう一つの「後付けコンセプト」という失敗を重ねてしまったのである。
古くからの仲卸はもっと原始的なやり方をしている。ではなぜ「昔ながらの」仲卸が生き残ることができたのか。確かに今はなんとか成り立っているのかもしれないが長期的には魚の取扱量は減少しつつあり、いずれ築地は変わる必要があった。中央卸売市場に変わる流通の選択肢も増えている。(東洋経済)また、先に見たように、過去の儲けを築地再整備に残しておいた。これを使って生まれ変わることもできたはずだが、それを石原都知事に使い込まれてしまった。(日刊ゲンダイ)その上に小池都知事の後付けのおそらくは思いつきのコンセプトが乗ってしまっている。
どうしてこうなったかは簡単に予想できる。前任者がなんとなく嫌という理由で都知事が交代するので、問題を総括したり反省したりすることなしに場当たり的に解決策を積み上げてきたからである。そこにフラッシュアイディアが持ち込まれ話がより一層複雑化する。
その背景には静かな離反も進む。我々消費者は伝統的な寿司屋ではなく回転ずしや缶詰の魚や冷凍のシーフードミックスを好んで食べている。魚の解体調理は面倒な仕事であり現代の家庭では調理の手間を考えると魚食の合理性がない。東京に伝統的な文化を残すべきだという人もいるだろうが、その人が実際に時価で寿司を食べに行って東京の伝統を支えるということは恐らくないはずである。
魚食文化を全体として捉えるとそれぞれの人たちが別々の方向を向いている。それぞれ違った方程式を解こうとしているのだからこの問題にそもそも本質はないはずなのだ。
ここで個別のことをみるといろいろな議論ができるのだが、実際に重要なのはバラバラになった全体である。これを社会とか公共と呼ぶ。
本来ならば全体の系や態のバランスを見ながら全体を調整をするのが政治の役割である。だから「社会」は政治を税金で支えているわけだ。だが、最近の政治家はそれでは満足できないらしく「もっとお金が必要だ」という。その金は権力闘争に使われる。彼らは政治にお金が必要なのではない。権力闘争という戦争に勝つための軍資金が欲しい。我々は政治を問題解決の道具とみるが、政治家は権力闘争のコマとして社会問題があると考える。
「完全な市場」には仲介者は必要がない。だから、豊洲を市場主義に任せるというアプローチもあったはずだ。人間の脳が複雑な動きをインプットして3D的な動きを学習するように、市場は取引から全体を制御する仕組みを鍛えるだろう。
全体の仕組みを完全に解明することは難しい。築地の問題は、各要素を分解しても本質は見えないだろう。全体の振る舞いは個別の動きだけからは予想ができないのが複雑系である。これは実は前回見た姿勢の制御や表情の制御などと似ている。だから、個別の「本質」を離れてシステム全体に着目すべきなのである。つまり、我々の社会には全体をマネジメントする意思があるのか、それとも複雑化しすぎて全体が見えないのだから、システム全体の自立に任せるのかということを決めた上で、システム全体がどう動いているのかを観察する必要がある。後者をとると「自由主義」とか「市場主義」になる。前者はむしろ穏健な社会主義的である。
ところが、日本では健全な市場主義が何年実現できていないので全体に対する自然な絵が描けない。これが思い込みを生んでいる。任せるべきところを市場に任せるべきだというと「新自由主義だ」などと言われてしまうのである。実際に水道民営化で反対運動が起きている。また、現在の仕組みが社会主義的すぎるなどと言えば、社会主義を勝手に中国共産党と結びつけたような人たちが自分勝手に別の連想を始めてしまう。魚流通に詳しい人が全体を見ることができないのと同じように、政治を知っている人たちは政治を知りすぎているために本質が理解できなくなっているのではないかと思う。
東京都は本来は民間に任せることができる市場経営を都から切り離した上で、観光資源にはなり得るが単体では存続ができない築地を公費で残すべきだった。築地という心臓があれば古くからの江戸前寿しの店などが守れる。一方で「本物の和食の味」を求めてきた人たちからの観光収入は築地市場には入らない。だから税金という形で徴収することで築地に還元しなければならない。市場主義的には、公共がないとエコシステムが完成しないときにだけ政治が介入すべきなのである。
この「正しい意味での公共」がなくなれば、東京は回転寿司ばかりになり、少なくとも寿司文化という意味では「他の都市と同じようなつまらない街」になる。それでも構わないと考えるのが市場主義であり、これがあることで観光客が増えるから公費で心臓を守ろうというのは穏健な社会主義だ。だが、市場(資本)主義か社会主義かを決める前に、そもそも全体の仕組みがどうなっているのかを観察する必要がある。本来マスコミはそのための情報を提供すべきだが、その役割を果たしていないのでTwitterから生の声を拾ってこなければならない。その意味では私企業のTwitterだけが公共放送の役割を果たしていると言える。NHKは政府・行政・企業の広報機関だ。
国政はさらに悲惨で、企業に給料を上げろと依頼したかと思えば今度はクレジットカードの手数料をなんとかしろと言い出した。目先のことしか見えておらず、エコシステムを円滑に回すことで経済の適正化を図ろうという政治的な世界観を持っていない。全体に対する感覚が失われていることで、自分たちが何をやろうとしているのかがだんだんわからなくなりつつある。にもかかわらず、二極化した議論ではここに賛成派や反対派が生まれる。
もちろん、個別の問題を観察するのは重要だが、これを解決するためには問題から答えを導き出さない方が良いのではないかと思う。まずは、我々がどう世界を見ているかということを観察し直すべきなのではないか。次回はまた姿勢の問題に戻ってマッピング(認識)の問題について考える。