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バカがリーダーになると何が起こるのか – 「戦闘」の定義をめぐる子供じみた争い

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日報の「戦闘」、法的な「戦闘行為」でない 政府答弁書」という記事がTwitterで出回っている。もちろん、安倍政権がいつものように嘘をついているので怒っているのだが、なぜこれがいけないのか説明できる人は少ないようだ。

これがいけないのは、法律に使う用語を勝手に定義してしまうと、法律論どころか意思疎通ができなくなってしまうからである。だが、言葉の意味は厳格でなくてはならないと考えている人はそれほど多くない。代わりに「とにかく安倍が嘘をついた」といって騒いでいる人が多い。この人たちになぜいけないのかをかいつまんで説明してみたのだが、よくわかってくれないようだ。

その理由を考えたところ、多分怒っている彼らも「論理」というものの大切さがよくわかったいないからなのだろうと思った。こういう人たちのことを何と呼んでいいのかはわからないのだが、仮に「バカ」と定義してみよう。安倍首相もバカなら反対している人たちもバカということになる。もし「バカ」が嫌いなら適当に口当たりのよい表現に変えてもらっても良い。論理に柔軟な人とでもいえばよいだろう。

さて、自衛隊の問題の根幹は何だろうか。このブログを読んでいる人には退屈だろうが、しばしお付き合いいただきたい。自衛隊の問題の本質は「軍隊なのに軍隊ではない」というところである。憲法では国の交戦権が認められないので、原理的に軍隊が持てない。そこで警察予備隊という別組織を作った。これは国内の治安維持のためのものであり「警察のすごいやつですよ」と定義したのである。敵が国内に入ってくれば国家主権の範囲で制圧が可能なのでこのような定義でも特に問題はなかった。

国内に入ってきた敵を警察権の範囲で撃退するのが「個別的自衛権」の本質である。だが、実態はどこからどう見ても軍隊の上にアメリカ人もこれを「日本に軍隊を持たせるためのエクスキューズだ」と考えていたことから話が複雑化する。ある時は軍隊であり、またある時は警察というようなよくわからない存在になった。

これを踏まえて戦闘の意味を読み解くと面白い。政府が本来言いたいのは「あれは国家(もしくは国家に準じる団体)との戦いではないですよ」と言っている。だから憲法に抵触しないという理屈だ。であれば何なのかということになるのだが「警察活動」の範囲なのだ。小競り合いが起きておりそれを鎮圧しているだけだからである。

しかし「警察活動の範囲ですよ」とも言えない。それはPKOが国際法的な警察活動ではないからだろう。自衛隊は集団的自衛の一環として送り込まれた軍隊の集まりに参加している。そこでたまたま起きた警察的活動だったというような言い訳になる。さらに、日本が外国に行って警察活動を行う法的な根拠は国内法にはなく、さらに派遣国との間にもそのような協定は結んでいないはずである。

ここから、政府は自衛隊を都合に合わせて軍隊に見立てたり警察に見立てたりしてきた。その実態はなんだかよくわからないがすでに存在する「自衛隊」である。だがそのうちにそこで議論が混乱して「あれは法的な意味の戦闘ではなく辞書的な意味の戦闘なのだ」というわけのわからない言い訳をせざるをえなくなった。政権が変わったり与野党が交代すればその継続性はますます怪しいものになるに違いない。

安倍政権を攻撃する人たちがここに踏み込んで「言葉の定義を明確にせよ」といえないのは、彼らもまたこのようにご都合主義解釈の世界を生きているからだろう。他人にあるスタンダードを当てはめてしまうと自分にも跳ね返ってくる。冒頭ではこれをバカと言ったり論理に柔軟な人と呼んだりしたいのだが、日本人にはそのような特性があるのではないだろうか。

こうした「柔軟性」があるおかげで、自衛隊という明らかに憲法上黒の存在であっても「もうあるんだしいい人たちなんだから許してあげようよ」ということができる。災害救援活動では役に立っているし、みんないい人そうである。自衛隊の海外派遣を攻撃する人も「災害派遣なら良い」などと言ってごまかしてきた。

しかし、やはりこれはまずい。何がまずいのかを全く別の事例を挙げて考えてみたい。最近相撲協会がちびっこ相撲と女性差別について迷走している。ここにも自衛隊議論と同じ様な股裂構造がある。

相撲は国技を名乗ることで一定のプレゼンスを得た。しかしそのベースになる神道は女性蔑視的な教義を含んでいる。さらに経済活動のために女性ファンを引きつけたり公益法人化も行った。このため本来の神道が持っていた女性蔑視的な理由では土俵から女性を排除できなくなった。そこで八角理事長は苦し紛れの談話を発表した

ここには相撲の神道は国家神道ではなく習俗に近いので女性差別的な含みはないとした上で、男性が一生懸命に頑張っているところを見せる場所だから女性には入ってほしくないと言っている。つまり男は女性ができないような激しいことを行える特別ですごい存在なので尊敬してほしいと言っているのである。

この言葉で女性が納得するはずはない。女性は一生懸命頑張れないのかという反論が考えられるし、レスリングのような格闘技にも女性が進出している。だが、よく考えてみると「体育会系相撲脳」の人たちがそこまで複雑なことを考えているとも思えない。彼らは「相撲取りだって女性にモテたい」ということなのではないかと思う。

つまり、男性が頑張って相撲を取っているところを「男の人って力が強くてすごいのね」とキャーキャー言ってもらいたいのだ。相撲は素直に見れば太り過ぎの男性が裸で抱き合っているという行為でありモテの要素はない。そこで神事であると言ってみたり、女性は入れない特別な場所なんだと主張してみたりしているだけなのだろう。

だが女性も相撲を取りたいなどと言い出したので「危ない」といって排除してしまった。すると最近は女性よりひ弱な(あるいは張り切りすぎたのかもしれないが)男の子が怪我をしてしまい、ちびっこ相撲自体をやめようというような話になってしまった。

しかしそもそも神道は女性蔑視の教義を持っていなかった可能性がある。最初の神様は女性であり、女性の持つ生命力は信仰の対象だった。秩父に宝登とかいてホトと読む神社がある。もともとホトとは女性器のことを指している。生命の源として神聖視されていたのであろう。だが、神社の由来などをみても女性器と神社を結びつけるような話は出てこない。これは神道が整備される過程で女性が政治的な意思決定から排除されてきたからだと考えられる。かつては皇室にも女性の政治参加があった。しかしなんらかの理由で政治の中枢から女性を排除するようになり、後付けで神道にも「穢れた」という概念が導入された可能性がある。

相撲は神道と近代民主主義という二つの構造を使って自分たちを定義しているのだが、実は定義の方も時代によって変わってしまう。そこで八角理事長は「相撲が準拠する神事とは国家神道ではない」という苦しい言い訳をすることになった。一方で、もう一つの接ぎ木である公益にも近代民主主義という概念が付随する。だから「これは女性蔑視ではなく保護だ」と言わざるをえなくなったのだろう。しかしその実態は「モテたい」というある種素朴な願望である。

なぜ相撲がスポンサーを土俵に上げたのかはよくわからないが、多分「神聖な場所に特別に入れてあげる」ということが待遇表現になっていたからだろう。つまり「ここに来るとモテるよ」ということである。だが女性を入れると「特別感」が台無しになってしまうのでなんとかして避けたい。そうこうしてるうちに、女性は不浄だの、男女同権だのとややこしい問題が入ってきて、一体何を議論しているのかがわからなくなってしまうのである。言葉の定義を曖昧にしてなんとなく使っていたためにわけがわからなくなった事例である。

自体隊の問題ももともとは「アメリカと一緒に行動していいところを見せたい」とか「中国に対して威張りたい」といったある種素朴な願望が行動原理になっているのかもしれない。民主党政権が何を考えていたのかはよくわからないが「国連が熱心に言ってくるので、悪いと思って断りきれれなくなった」と言ったところではないかと思われる。こちらも素朴な事情である。

だが、そのように素直で素朴なことは言えないので、いろいろ言い訳をしているうちに議論がどんどんおかしな方向に進んでしまう。その結果行われたのが「日報は捨てちゃったからない」とか「法律の意味は辞書の意味と違う」といった子供じみた言い訳担ったあわわれた。

このような状況を民主主義の危機と呼ぶのはあまりにも大げさなので「バカだなあ」としか評価できないのだが、実際には野党が国会に出てこなくなり、重要なことは何一つ決められなくなった。さらに日本は海外が期待しているような国際貢献もできず、ついには外交交渉から置いて行かれるような事態にまで発展している。「バカ」に政治を任せている代償はあまりにも大きいと言わなければならない。

政治も相撲もバカに任せてはいけないのだ。

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