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国体議論と憲法議論はなぜ不毛になるのか

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前回は、日本人がマルクス・日蓮・立憲主義・憲法第9条がどれもお経のように捉えているというような話を書き、その中に国体主義を入れた。つまり、国体もお経のようなものなのではないかということである。

今回は国体について扱う。燃えやすいテーマなのでいったん読むのをやめて「自分が思う理想の国」について考えていただきたい。

先に「私が思う国の形」について考えたい。それは、自分たちの運命を自分で決めながらそれぞれが考える理想の形で「まだ見えていない可能性」を追求できる社会だ。まだ見えていない可能性を成長と呼ぶと、もし成長にとって必要だと考えれば社会を作れば良いし、いったん作ったなら他人の成長も巻き込んでいるのだから、それに責任を持つべきである。もちろん、これに賛同していただかなくても、以降の読み物は読むことができる。

国体主義はこの中では唯一の日本独自の概念であり英語のウィキペディアでもkokutaiという項目が設けられている。いろいろな概念が誤解されるのはそれが輸入概念だからなのだが、国体は日本独自の概念であり、解される可能性などないのではないかと思える。元をたどれば古事記や日本書紀のような伝統的な書物にまで遡ることができる古い概念だ。

ところが、古事記も日本書紀も天皇家の正当性を主張するために作られた物語であり、真実をベースにしているのかもしれないがいわばフィクションである。そして、国民すべてが合意するような「国体論」は未だに存在せず、それどころかほとんどの国民は国体には興味がない。国柄などということを考えなくても日本という島の形があり日本語という言葉があるからだ。

そもそも、古事記や日本書紀も、中国語で書かれているのだから中国を念頭に書かれているのかもしれない。もし、文字を持たない日本人を説得するとしたら、それは口伝だったはずだ。現に古事記は歴史をすべて丸暗記していた人からの聞き書の形になっている。当時はかなり長い文章か膨大な伝承をそのまま暗記することができる人がいたのだろう。国を発展させるためには庶民にも文字を教えるべきだなどと考えた人はいなかった。仏教の布教も口伝やきらびやかな仏像を通じて行われた。「お経みたい」というのは、つまり何が書いてあるかわからないがとにかくありがたいということの例えであり、つまり意味がわかっていない人たちから見た仏教の感想である。

明治時代になって国の統治システムを国体と呼ぶようになると、国柄についての議論が始まる’。アメリカに渡った人たちは、アメリカ人が「アメリカの基本は民主主義だ」と明快に理解していることに驚いたのではないだろうか。そこで「日本の統治システムとは何だろうか」ということを考えてみたものの答えられる人は誰もいなかった。考えたことがないのだから答えられなくても当たり前だがm問題は実はそのあとだ。どれだけ考えてもみんなが納得する答えが見つからなかったのである。

明治維新体制は天皇を中心とした国家だ。だから天皇という存在をを動かせないという制約があったがそれでもまとまらなかった。

さらに不幸なことに「国家体制」の議論は政局的に利用されることになりついには言論を萎縮させる事件が起こる。有名なのは昭和10年(1935年)に起きた「天皇機関説事件」だ。ある貴族院議員が美濃部達吉貴族院議員を攻撃した。美濃部は起訴猶予処分になったが貴族院議員を辞任せざるをえなくなる。「右翼に気に入らないことを言ったら逮捕され投獄されるかもしれない」のだから議論が活発に行われるはずもない。さらに日本は経済的に行き詰まり、その打開策として中国に進出するのだが、今度は軍事的に膠着し、最後にはアメリカと対立して破綻してしまう。

そんな中で国体は議論されなくなり、代わりに日本は天皇というお父さんを中心にした仲良し家族なのだということなったのだが、実際の「お父さん」とその取り巻きたちは多くの兵士を餓死させ最後には沖縄を犠牲にして自分たちだけは生き残ろうとした。もし日本が家族だとしたら、とんだ暴力一家である。

最終的に国体は国民を追い詰めたということになり、議論そのものが行われなくなって現在に至る。

戦後の新しい国体議論に進む前に、こんなストーリーはどうだろうか。

ある狭い村に住んでいた人たちが三人平原に連れてこられた。村の狭さにうんざりしていた彼らが「土地をあげるから好きな国を作って良いですよ」と言われた。一人ひとりは理想を追求することができるのだろうが、それでは社会にはならない。そこで話しあいを始めるのだが制約事項が何もないので何も決められない。そうこうしているうちに「なんでも決められる」ことに不安を覚えて取っ組み合いの喧嘩を始めるのである。

現在の国体論は憲法議論の形で行われている。安倍首相は「国のかたち、理想の姿を語るのが憲法」と言っているのはその影響だろう。ただし、その議論に影響力を行使できないことがわかっている野党側は「為政者を縛るのが憲法であり、安倍首相とは憲法観が違うから話し合いすらできない」と譲らない。

もともと安倍首相が憲法を改正したいのはおじいさんの影響だと言われている。ではおじいさんである岸信介はどうして憲法を改正したかったのだろうか。よくわからないののだが、いくつか断片的な話を総合すると以下のようになる。

  • 日米の集団的自衛体制を固定化したかった。
  • 吉田茂らの一派が、岸ら公職追放組がいない間に憲法を決めてしまったのがおもしろくなかった。

つまり、岸信介は「アメリカに基地を貸して、代わりに守ってもらっている」ことを前提に「日本がアメリカに従属しているから」ではなく、「これは集団的自衛でありアメリカに協力してやっているのだ」という理想形を作りたかったのだろう。安保の交渉を見てもそれは間違いがなさそうだ。

しかし一方で、自分がかかわらなかったうちに吉田茂一派が「勝手に」妥協の産物として日本は軍隊を持たずにアメリカに守ってもらっているという体制を憲法として固定化してしまったのが面白くなかったということも言える。「聞いてないよ」というわけだ。

つまり「俺たちがいない間い勝手に決めたからくだらないに決まっている」と言っているだけだと言える。もともとは安倍さんのおじいさんと麻生さんのおじいさん(しかも揃って外孫)の内輪揉めなのだが、それに加わったのが安保反対運動を聞き入れられず、ベトナム戦争も止められなかった左派である。左派に「戦争反対とは何に反対しているのか」と聞いても明確な答えはない。しかし、多分彼らが考えている戦争は第二次世界大戦にベトナム戦争が混ざった戦争なのではないだろうか。

つまり、ここに参加している人たちが言っているのは「決めるときに俺は意見を聞いてもらえなかった」と言っていることになる。これが現代の国体議論である憲法改正議論の正体だ。

つねづね、ネトウヨの人たちは現在のアメリカは大好きなのに、なぜGHQを嫌うのだろうかと思っていたのだが、実はアメリカが二つあるのではないということがよくわかる。つまり「吉田茂が対応したアメリカ」と「俺たちが話をしているアメリカ」があるのだ。これは民主党がやろうとしたTPPと自民党が実際に交渉したTPPが別物だと認識されているのと同じことだ。

もちろん、岸信介の論にも理解できる点はある。現在の体制は世界第3位の経済大国が軍事的にはアメリカに従属しているというのは極めて不自然である。これを対等な軍事同盟にすれば少なくとも形の上では日本は独立国としての体裁を取ることができる。気持ちは違ってくるだろうし、国や社会に対する責任感も生まれるかもしれない。

岸信介にとって不幸だったのは、多分娘が自分の心情をよく理解せず、さらに孫が凡庸(あるいはそれ以下)な人だったことなのだろう。安倍首相は岸信介が憲法改正をしたかったことは知っているし、憲法調査会を作っていたことも知っているようだ。しかし、岸信介が何をやりたかったのかはよくわかっていないようである。

もし仮に「主権国として対等にアメリカと関わることができるようになりたい」というおじいさんの理想を実現するのなら、沖縄で基地問題が起きたときには抗議をするだろうし、北朝鮮問題についても主体的に責任をとって関わろうとするだろう。しかし安倍首相はアメリカの庇護下にあるという状態を楽しんでいるようにさえ思える。さらに自分の政権を維持するためにはアメリカとの親密さが重要だということを理解しているので、決して機嫌をそこねるようなことを言おうとはしない。つまり、従属国の首相であるということを完全に内面下してしまっている。これは多分岸首相が恐れた「堕落した従属国の総理大臣」の姿だろう。

安倍首相は国防に関わることについては一切国会答弁しない。「相手の出方があるので手の内はあかせない」と言っている。実際には日本には軍事的自由がないので「自分たちにはわからないし決められない」ということなのだが、裏を返せば何か問題があったときに国民は「アメリカが勝手にやったことだし」「知らなかったから責任は取れない」と言って良いことになる。これは戦前の陸軍と国民の関係にそっくりである。

こうしたことがいっし問題にならないのは実は憲法や国体の議論が「理想の追求」ではなく単に「プロセス論」に過ぎないからである。つまり、自分たちが決められばなんでもよいわけだし、そもそもそこにすでに国と固有の言語を持った人たちがいるわけだから多くの人は関心すら寄せないのである。

多分、これだけを専門に研究している人から見ると暴論と言えるまとめ方だが、国柄と憲法の議論はいわば壮大な内輪揉めの歴史で、基本的には「俺は聞いていないから気に入らない」という性質のものである。

常に言葉も通じない他者に囲まれて彼らが地平線の彼方からいつ攻めてくるかわからないという状態になればそれなりに「あの人たちを違っている我々とは一体何なのだろうか」ということを考えるのだろうが、日本人にはその必要がなかったということなのかもしれない。

実際には自分たちが行き詰まるかもしれないという不安感を社会に投影している人も多い。つまり「このままでは没落してしまうかもしれない」と不安に考えている人も多いわけで、自分たちのあり方について考えることができないということには実害がある。こうした不安を抱えている人たちの心情を察せず「聞いていないから気に入らない」というような議論を繰り広げているのが、今の政治なのである。

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