ざっくり解説 時々深掘り

リベラルという言葉をめぐる混乱

カテゴリー:

リベラルという言葉が混乱しているらしい。外来語なので混乱するのはよいとしても、混乱した用語をめぐって「自分は排除されている」と考える人が出てきている。なぜ、実体のない言葉で自分を規定した上で、被害者意識を持つことができるのかが不思議なところであるが、言葉の意味さえわかれば過剰な被害者意識は減らせるかもしれない。

もし、過剰な被害者意識や孤立感を感じたら、自分がどのような世の中を求めているのかということを口に出して見た方がいいと思う。自分が他人と違っていると考えるから不安になるのであって、言語化してみれば意外と普遍的な意識を持っていると感じられ不安は減らせるかもしれない。

まずリベラルという言葉から見てゆく。日本では自由と訳されているが。Merrian Websterは次のように解説する。

Middle English, from Anglo-French, from Latin liberalis suitable for a freeman, generous, from liber free; perhaps akin to Old English lēodan to grow, Greek eleutheros free

リベラルという言葉はラテン語の自由から来ており、同じ意味を持つ英語由来のfreeと同じように使われる。この解説の中に出てくる、フリーマンというのは奴隷の対概念で「支配から独立している」という状態を意味する。これは日本語の自らによるという漢字からは伝わってこないニュアンスだ。今でも「砂糖が入っていない」という意味でsugar freeと言ったりする。またLiberateと動詞化すると解放するという意味になる。奴隷を解放するとか植民地を独立させるなどという意味がある。

これが英語の基本的なリベラルのニュアンスだ。

リベラルというのは「〜の自由」を意味するので、この「〜からの」がわからないと意味が掴めなくなる。もともとは社会的因習から解放されることをリベラルといっていたように思える、政府の規制から自由になって経済的自由を謳歌するという意味で使う人もいる。後者を「新自由主義」と分けて呼ぶ人もいる。

自民党もLiberal Democraticだが、これは明治政府の旧弊な制度から解放されて真に民主主義的な政府を作るという意味があるのだろう。結党した人たちがどのような気持ちでこの党名をつけたのかはわからないが、少なくとも当時のはやりだったのだろう。

アメリカでは新自由主義的な政策をリベラルというのだという話も聞かれるがこれも正確ではないと思う。社会主義の言い換えとしてリベラルが使われることはアメリカでもある。自由主義の領袖を自認するアメリカではソーシャリストというのは単なる悪口にしかならず、それなりの言い換えが必要だからだ。

日本の左翼がリベラルという裏には、社会的因習から自由になって多様な価値観を認め合う社会を作って行こうというような意味合いがある。経緯はよくわからないものの、共産主義が独裁化してゆく中で左翼は新しい価値観を想像する必要に迫られたのかもしれない。佐々木俊尚は革新よりも新しい概念で、共産主義が破綻した1990年代からの「誤用」だと言っている。

佐々木によればリベラルはアメリカの民主党の立ち位置が「正解」であり、日本のリベラルには反権力という意味合いしかないというのだが、これも「新自由主義をリベラルというのだ」というのと同じ決めつけになっている。このようにして左派がリベラルという言葉を使うのを嫌い、自分が本家なのだと言いたがる人もいる。左派は左派で自分たちこそ真のリベラルだと言っている。

どちらかが誤用というより、輸入概念をお互いに都合よく解釈しているだけなのではないかと考えられる。

しかし、全く別のものが同じ名前で呼ばれているので、やはり混乱する人が出てくる。日本では、共産主義は下賎なという拭いがたい印象がある。共産主義や社会主義が労働者や貧しい人たちの運動だったということに関係していると思われる。このため共産党支持者の中にも「名前を変えるべきだ」とか「現在の共産党は中道左派くらいだ」と言いたがる人がいるようだ。

こうしたイデオロギーの曖昧さはリベラル以外にも見られる。Reformという言葉もよく使われる。これは革新とか維新などと訳される。どちらも新しいという意味である。ではなぜ日本人は新しいものを好むのか。

フランス人記者が日本の選挙を観察し、安倍首相はコンビニの経営者のようだと言っている。コンビニの新しさには独特の性質がある。本質は代わり映えがしないので、フレーバーを変えることによって新しさを演出している。カップヌードルに馴染みがあるので別の商品を試すのは怖いが、かといって同じものばかりだと飽きてしまうので、新しいフレーバーが次々と導入されるのである。みんなと違ったことをするのは嫌だが、飽きてしまうので、コンビニの製品の7割がこのような形で入れ替わっていると言われているそうである。

このため、同じ人たちが看板だけを変えてリフォームを意味する革新とか維新という言葉を使いたがる。小池百合子都知事は代わり映えしない政策を並べて日本をリセットすると言っているが、それもそれなりの効果がある。

左翼運動は左派運動を革新と言い換えた。美濃部都政を革新都政というのだが1960年代の用語のようだ。左派が国民の支持変えられず内ゲバを繰り返していた時代だ。一方、保守の側も旧弊だと思われるのを嫌っている。保守とは言っても日本の場合保身に近いので、別の用語が必要なのだが、左翼の手垢のついた革新という言葉が使えず、維新という言葉を使おうなどとしている。

このように曖昧な言葉を使いたがる日本の政治家だが、さらにややこしいことになっている。小池さんの行動原理は「自分を支持してくれるならどんな主義でも別に構わない」というものだが、受け手の人たちはこれを統合して「敵なのか味方なのか」という判別をしたがっているようである。彼女は復古主義的な動きに同調しつつ、主婦の人たちが好みそうな政策にも触手を伸ばした。もともと左翼リベラルの票田が欲しかっただけなのだろう。

ここで「彼女は新自由主義者だ」という意味でリベラルを使う人、旧弊な男性型のしがらみ政治からの解放者という意味でリベラルだという人、反原発などの左翼的リベラルな政策から彼女をリベラルだと思い込む人たちが出てきた。そこで、リベラルという神聖な言葉が汚されたと思う人が出てきてしまった。

実体がないのに、あるいは実体がないからこそこのような混乱が起きると収拾がつかなくなってしまうのだ。

ツイッターで政治問題について話している人であっても、自分がどのような政治的志向を持っているのかがわからない人が多いようだ。そこで、自分がどのラベルに属するべきなのわからないということになる。にもかかわらず、それぞれのラベルには「いい」とか「悪い」という色がついており「敵と味方」という匂いがある。そこで例えば「左翼と思われると社会から蔑まれるのではないか」と感じたり「リベラルも同じようなニュアンスを帯びているのではないか」などと感じて混乱するのだろう。

実体のない言葉に踊らされた上で、実体のない多数派に抑圧されていると感じているという人もいるということになる。これは馬鹿馬鹿しいので今すぐにやめたほうがよいだろう。と同時に自分がどのような社会に住みたいかということを一人ひとりが考えるべきである。自分の中に言葉がないといつまでも不安を感じることになるのではないかと思う。似たような考え方を持っている人がいるなら、ラベルにかかわらず応援すればいいし、違ってきたなと感じるなら距離をおけばいい。実はそれほど難しいことはないのではないかと思う。

コンテンツのリクエストや誤字脱字の報告はこちらまで


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です