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護憲派の愚かな間違い、とは何か

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護憲派の人たちに話を聞きに行くと、たいてい「憲法第九条が改悪されてしまうと、日本は再び戦争ができる国になる」という。しかし、それはとても愚かな間違いだと思う。なぜ、それは愚かな間違いなのだろうか。
一発で世界を破壊しかねない核兵器が開発され国連という枠組みが作られた現代では、世界大戦は起りそうにない。仮に日本で軍隊ができて武力で問題を解決できるようになったとする。日本が参加するのは、主に国連を中心とした世界秩序に反抗する国に対する治安維持活動のようなものになるはずである。この中には日本に石油を運ぶ航路の治安維持といった我が国の経済活動に直結したものもあるだろう。
さて、では憲法を改正して自衛隊を軍隊として認めるべきなのだろうか。そうはいいきれないのがこの議論の複雑なところだ。そもそも「なぜ憲法を改正したいのか」という意図に問題がありそうだ。
まずは簡単なところから始めたい。民進党の長島昭久議員は「まずは地方自治からはじめてみては」と提案している。どのような意図があるかは不明だが、地方自治が推進されると地方の意識が強まると仮定したい。多様性が生まれて経済が活性化する。
しかし、現在の地方議会は国からおりてくる補助金をどのように分配するかを決める場になっている。東京ですら利権の分配機関だ。地域住民もをそれを是認していて、大したチェック機能は働かせない。意識が変わらないのに憲法で地方自治を推進するとどうなるだろうか。多分、権限を与えられた(代わりに中央からの補助金は減り自分で稼げと言われる)地方行政は大混乱するだろう。
つまり、順序としては、地域に地方自治に対する意欲が高まり、それが運動化した上で、憲法議論に結びつくという形が望ましいことになる。マインドセットは憲法を変えうるが、憲法はマインドセットを変えない。特に民主党は2009年に地方分権を掲げながら結局何もしなかった過去がある。つまり「憲法を変える」ことが自己目的化しており、そのために口当たりのよさそうな条項を探しているという倒錯した状況が起きている。
自民党はさらにひどい。自民党が目指しているのは憲法の空文化である。普通の法律でいうところのいわゆる「骨抜き」だ。例えば、表現の自由や人権に「公益に反しない限り」という前提条件をつけたり、法律を厳しく縛るはずの憲法に「規範」を加えようとすることがそれにあたる。もしくは、治安維持を前提にして国会の機能を停止させる緊急事態条項もその一つだ。
さらに姑息なのは極端な草案を持ち出して国民を恫喝し「じゃあ、落としどころはどこなの」と取引を持ちかけるという手法である。今や有名になった「ほら、対案だせよ」というものだ。すると「対案なんかない」となってしまう。つまり、話に乗らず、何もしないのが最善ということになるわけである。泥棒が家にやってきて「100万円よこせ」とやってきて「じゃあ、いくらなら払えるんだ」というのと同じだ。
現在の常識から考えると(この文章を読めているということは、一般よりはやや高めの読解力と、まとまった文章を読む時間的余裕を持っているということだが、それが一般的とは言えないのかもしれないのだが……)民主主義の常識を逸脱する憲法草案など受け入れられるはずはない。だが、実際には国民の「大多数」が民主主義の逸脱を求めることがある。それは民主主義がきわめて面倒な手続きとそれなりの知識を前提としているからだ。民主主義が大衆が持っている「一般常識」に合わないことがある。「よくわからないので嫌」とは言いたくないので、そこに「伝統的な価値観」が持ち出されるのだが、実態は「お父さんの小さいころはこうだった」くらいの<伝統>でしかない。
こうした大衆の要請をもとに「状況の打開」が試みられることがある。例を挙げる。日本軍はアメリカなどの包囲網をかいくぐろうとして中国大陸に進出し大衆の熱狂的な支持を得た。ヒトラーはドイツ民族の正統性を訴えて東方に進出した。アメリカはイラクに大量破壊兵器があると主張し国民に支持された。ルワンダではラジオで煽動された人たちが民族の伝統(実は西洋人に捏造されたものだったのだが)をもとに隣人を殺した。イギリスではEUが諸悪の根源であり離脱すれば全ての問題が解決されるという説明がなされた。そしてエルドアン政権はクルドや一部のイスラム主義者が治安を脅かしていると説明して国民からの信任を勝ち取った。政治経験のないトランプ候補は「ムスリムとメキシコ人が全て悪い」と良い、共和党の大統領候補になってしまった。
ここに共通するのは、問題を解決するために複雑な話し合いを避けて物事を単純化しようという動きだ。イギリスのように暴力を伴わず民主的なプロセスで行われる場合もある。全てに共通するのは敵と見方の峻別である。敵を作ることで、大衆の支持を得るのだが、これはきわめて分かりやすく感じられる。
その末路には何が待っているだろうか。第二次世界大戦の例2つを除いて起きているのは、国民の分断である。イギリスでは移民に対する風当たりが強まっているというし、アメリカやトルコではテロや大量殺人が横行している。敵を作っても問題が解決するわけではなく、問題点が先鋭化されやすいのである。
民主主義を骨抜きにしようという「非立憲主義的な」憲法改正議論と敵の設定は同根だ。それは国家に程度の違いはあれ国内分断や内戦状態を作り出すのである。その他の「前向きな」憲法改正議論も結局それを手助けしているに過ぎない。憲法議論というのは、現在起きている動きのほんの一部にしか過ぎないとも言えるだろう。
改憲派は決して「戦争ができる国づくり」を指向しているわけではない。単に複雑さに疲れ果てて物事を単純化したいと考えているだけである。だが、それは結果的に国民を分断し、問題を放置することで国家を分断させるように作用するということになる。
さて、ここまで辛抱して読んだ人たち(いないかもしれないが)は立憲主義者の過ちに気がついただろうか。それは「敵を対立させ国民を分断する」言質にまんまと乗っかって「アベ許さない」としたところだろう。そもそも「白か黒か」というのは作られた対立構造であり、本質的な意味はないのである。
つまり、安倍政権は「戦争ができる国づくり」を目指しているわけではない。国家の統合を毀損し、内乱状態を作り出そうとしているということになる。そして、それは既に始まっている。