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おせち料理の歴史的変化

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ファッションにおける権威と民主主義について考えているうちに、 このプロセスが巡りしたらどうなるのだろうかということが知りたくなった。ファッションを見ていてもよい事例が浮かばないので、考えついたのが「おせち料理」である。
お正月は日本の伝統を感じさせてくれる数少ない機会だ。その伝統がどこから来ているかは分からないが、なんとなく朝廷料理から来ているような印象がある。つまり朝廷料理を基本とした「本物のおせち料理」というものがあるはずで、そこから逸脱した「偽物」もありそうだ。
冷泉家のお正月料理について記した本には次のような記述がある。それによると、ごまめ、カズノコ、タタキゴボウ、黒豆、くわいなどがお膳に載っている。また、塩鯛が1人に1匹付く。さらに、四重の重箱があるが、煮しめ以外には決まり事がない。つまり、おせち料理にとってお重はあまり重要ではないらしい。
聞き書・ふるさとの家庭料理〈20〉日本の正月料理この正月料理を考察している。全国調査によると、うどん・スシ・小皿料理などで、年始客をもてなす地方も多いらしい。重箱(これをお重詰めという)を使うのは名古屋と近畿圏が中心だ。「祝い箸」といって正月の間だけ箸を新しくするのは、京都と大阪でしか観測されない。さらに箸袋に名前を書くのは大阪だけだ。
この本の考察によると、正月料理には、年末の年取り膳、飾りの組重、正月のお膳、雑煮がある。このうち、関東で「おせち」と呼ばれていたのは、組重ではなく正月のお膳だ。今、私達が「おせち料理」と呼んでいる三段や四段のお重のことを、関西では昭和三十年代頃まではお重詰めと言っていたのだそうだ。
現在でも天皇家には正月に来客があり「お膳」が振る舞われる。しかし、その内容は質素なようである。そもそも普段の食事から質素なようで皇室の食卓によると、食べている魚も大衆魚だ。
今見られる豪華なおせち料理は「宮廷の儀式料理がルーツになっている」と主張する人たちも多い。これは、実際に口にする料理(お膳)と神様にお供えする飾り物(食積/重詰め)が混同されているからである。関西では三が日は鯛を食べずに重箱に詰めておく「睨み鯛」という習慣が残っている。この重詰めが、江戸や大坂の料理屋で洗練されて江戸時代には原型になるようなものが完成したとされる。つまり、現在のおせち料理の直系の先祖は料理屋の料理なのである。「皇室が権威だ」と考えるのであれば、豪華な料理は神様にお供えし、自分たちが食べるものは質素なものにしなければならない
では、今のような重箱詰めの「おせち料理」が完成したのはいつなのだろうか。関西でお重詰めが「おせち」と呼ばれるようになった昭和30年代から40年代頃なのだろうか。昭和50年に発行された土井勝の四季の献立 – おもてなしから毎日の献立まで (1977年)に出てくるおせち料理は、重箱料理ではなく大皿料理だ。土井勝はNHKの「今日の料理」に初期から関わっており、NHKが重箱詰めの料理を「おせち料理」として広めたという説も成り立ちそうにない。
となると、残るのはデパートだ。戦後核家族化が進み、テレビで「伝統料理」を学ぶようになり、徐々に本来あった正月料理が忘れられて行く。そして残ったのが、江戸時代の料理屋が枠組みを作り、デパートが継承した「おせち料理」だったというわけである。
100x100今でもおせち料理の本を読むと「おせち料理には決まりはない」と書いてあるものが多い。伝統を重視した場合「おせち」とすら言わず、「正月料理」と書いてある。にもかかわらず、再構成された伝統を見ている私達は、なんとなく正解のようなものを持っていて「中華風のおせち」とかお膳に盛られた「新作おせち」のようなものを見て眉をしかめたりするのである。