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ルーマニア民族の成立とネイションステート

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ルーマニアが気になっていた。国土の真ん中にカルパチア山脈があり国土が分断されている。なぜこんなところに「民族的な一体性を保った国民国家があるのか?」と思ったのである。長い間疑問を放置していたのだが、最近になって、そもそもルーマニアという一体の国土ができたのは最近のことであるということを知った。つまり国民国家という考え方が生まれたことでルーマニア民族という民族意識が芽生えたという側面がある。ある種人工的な概念なので安定性に欠ける。

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ルーマニアに住んでいるのは当然ルーマニア人であると思いがちなのだが実はルーマニア人という概念はそれほど自明ではない。

もともとはラテン語化されたトラキア系の人たちをいうらしい。トラキアはスラブでもギリシャでもないという独自の言語を話す民族だったが、ギリシャ語化された地域とローマ化された地域に分断された。ローマ化された地域をダキアという。その後、この地域にはスラブ系、マジャール系、トルコ系などが流れ込んできた。南部はテュルク系のブルガール人が流入しのちにスラブ化された。この地域がブルガリアである。

カルパチア山脈の東側はワラキア・モルダビアの二つの公国になった。またカルパチア山脈の西側の盆地はトランシルバニア公国と呼ばれた。公国という名前が示すようにオスマン帝国やハプスブルク家の支配下にあった半独立地帯だった。

カルパチア山脈の西側のトランシルバニアは長くハンガリーの支配下だった。ハンガリーはハプスブルク家のオーストリアに支配されたのでトランシルバニアはオーストリア帝国世界に組み込まれた。マジャール(ハンガリー系)やザクセン人(ドイツ系ハンガリー人)などが支配者として政治的な実権を握っておりルーマニア人は農奴として支配者層を支える側であったそうだ。

カルパチア山脈の東側は1859年にワラキアとモルダビアが合併してオスマン帝国内の自治国になった。これがルーマニア公国である。オスマン帝国はその後退潮しルーマニア王国になった。つまり、ローマ化されたダキア人であるルーマニア人はいつも誰かの支配下にある被支配者層だったことになる。二度の世界大戦に勝ち残りトランシルバニアから支配者だったドイツ系やハンガリー系を追い出したものの北部をモルドバ共和国として割譲させられた。ルーマニアもまたソ連の衛星国になってしまう。

ルーマニアは西側にも接近しつつニコラエ・チャウシェスクのもと独裁政権の時代が長く続いた。1989年位チャウシェスクが処刑されたことでようやく独裁が終わり民主化された。2007年にEUに加盟している。

最初の疑問はカルパチア山脈を挟んでなぜ東西に国があるのかということだったのだが、西側のトランシルバニアは長い間ハンガリーやオーストリアと一体だった。そしてルーマニア人には長い間政治的実権はなかった。世界にはこうした統治に関わることができない人たちが暮らしている地域がある。

ネイションステート(国民国家)が成立したときに彼らは民族として自立するのである。

同じような事例はバルト三国にもある。エストニア・ラトビア・リトアニア人はリトアニア人を除いて政治的実権がなかった。リトアニアは比較的よく独立を保ってきたがエストニアとラトビアは「バルトドイツ人」と呼ばれる人たちのドイツ騎士団に支配された。ラトビア・リトアニアはバルト語派という独立した語派を形成している。ノルウェーもデンマークやスウェーデンに支配されていた地域だった。

こうした複雑な経緯からルーマニアとハンガリーの間にはトランシルバニアをめぐる歴史問題がある。ハンガリー人はトランシルバニアが戻ってくるとは思っていないだろうが「歴史的にはハンガリーの一部」とみなす人がいるそうだ。またモルドバ共和国にはルーマニアと合同したいと考える人もいるようだ。少なくとも両国の国旗は極めてよく似ている。

常に抑圧されてきた民族は民族的伝統に乏しいため王室や王族というものに期待を抱く。ルーマニアやブルガリアには王族が存在する。

ルーマニアは共和国だが2001年以降国から認められている王室がある。最後の王様は2017年に亡くなったそうだが、現在でも実質的な女王がいるそうだ。また南隣のブルガリアでも最後の国王が首相に返り咲いた例があるそうだ。日本のように自然国境で守られたほぼ一体とみなされる民族的伝統がないと最後に頼るのは「象徴的な君主」なのかもしれない。

抑圧されているが数には勝るという多数派は時に問題を引き起こす。エチオピアでは長年アムハラ人支配に耐えてきたオロモ人が今度は周辺民族と衝突を繰り返すようになった。エチオピアは内乱状態に陥っている。

ヨーロッパではこんな極端な例は起きないのではないかと思われるのだがやはりオスマン帝国から独立した南スラブ人が宗教や言語の違いにより内戦状態に陥った事例がある。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は1992年から1995年まで続いたそうだが人道犯罪の裁判は2021年まで行われていた。

ルーマニアやブルガリアがこんな状態に陥るとは思えないのだが、ネイションステート(国民国家)というのはそれほど自明のことではなく、常に崩壊の危機にさらされているともいえる。

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