責任とをとった人が報われる社会になるべきか?と質問すればほとんどの人が「そうだ」と答えるだろう。逆に責任から逃げた人が評価される社会はおかしいですよね?ときけば、これも「そうだ」と答える人が多そうだ。
だが実際にはそうなっていない。
菅総理大臣が秋までに解散をすると言っている。二つの意味でなんだか変だなあと思える。第一にいつの間にか総理大臣がいつでも勝手に解散ができることになっている。憲法解釈上これは変だ。次にそもそも総理大臣が本当に解散したいのかもよくわからない。
そもそも総理大臣の上にたくさんの元総理大臣やキングメーカーを気取る人がいる。官邸主導を目指したはずが、いつのまにか「総理はみんなのみんなの駒」になっている。つまり総理大臣は単なる道具であり責任を押し付ける流し雛になっている。「総選挙で負けたら総理大臣を変えればいい」と誰もが考えている。おかしな話だ。
一つ一つ解決してゆく。もともとの憲法には「不信任案を出されたら対抗措置として解散していいですよ」という条項がある。だが不信任案なしに解散していいとは書いておらず、GHQもそれを認めるつもりはなかった。
だが議会と総理大臣が談合してしまい解散が行われた。馴れ合い解散と呼ばれる。そのうち内閣総理大臣は国事行為として天皇に議会解散を奏上できるということになりいつの間にか「総理大臣が勝手に解散してもいい」ということになった。これを7条解散というのだが度々疑問視されてきたもののなくなることはなかった。「みんな」にとって便利なことが多いからだ。
日本には違憲審査がないので総理大臣が違憲解散してもそれは問題にならない。国民には抵抗手段がないのだから「これはこれで仕方がない」ということになってしまう。だが実際には総理大臣の専権事項でもなくなっている。みんなにとって便利だから放任されているわけだからみんなの便利なように使わなければならない。だから菅総理は解散しますと言わざるを得ないのだ。
総裁の任期が切れるのが9月で衆議院議員の任期が切れるのが10月だそうだ。つまり総理大臣には解散しないという選択肢がある。7条解散がないと「選挙結果がどうなるかよくわからないが次の総裁を決めなければならない」ということになる。これを避けたいと考える人が多いおだろう。
選挙をやれば総理・総裁がどれくらい選挙に役に立つ人なのかということが測れる。総理大臣か幹事長に負けた責任を取らせて後の利権をみんなで分け合いたいという気持ちがあるのだろう。だから周囲が「解散」を期待する。
総理大臣でない人が好き勝手に解散について話し合っているというのはすなわち責任を取るつもりが最初からないということである。安倍元総理大臣は政権を放り投げておきながら「今度の改憲では私権制限をやる」と言い出している。だが緊急事態条項は国民の半数が支持しているので、このままでいくと責任を取らない人が勝って、責任を取ろうとした人が負けるという構図が確定することになるだろう。
わかることがいくつかある。責任の所在が曖昧であり、誰も本気で総理大臣を尊敬しているわけではない。途中で政権を放り出した人やみんなに寄ってたかって降ろされた人がなぜかキングメーカー気取りになっている。何かやって失敗した人は評価されず何もしない人が生き残るという世界である。
解散をめぐるあれこれは集団無責任体制の表れだ。改めて考えると無茶苦茶な話だが部分分だけを見て場当たり的な判断をしているとこういうことになってしまう。きっちりと責任の明確化を徹底しなければならないのだが日本人はそこが極めて苦手のようだ。結果的に「責任から逃げて失敗しなかった人」が大手を振っていばっているという変な社会になってしまった。